三好政権時代   下剋上・群雄割拠

下克上とは下の者が上を凌ぐという下層階級台頭の風潮である。特に応仁の乱を経て徐々にその高まりを見せるようになった。第二章の冒頭に掲げる「三好政権樹立」は三好長慶が主君の細川晴元を倒して政権を握る話であるが、まさにそれが下克上の典型例である。このころ地方でも織田信長の父信秀が、尾張守護斯波氏からは陪々臣の身ながら、二階級を乗り越えて尾張の支配者となった。上杉謙信の父長尾為景は主君上杉房能を倒して越後国主となった。その他、斉藤道三・毛利元就・宇喜多直家・長宗我部元親・龍造寺隆信らがその代表格であり、小名にまで目を広げれば枚挙に暇がない。第二章は、下克上とそれを阻止する勢力とのせめぎ合いの中から出現する英雄たちの、いわゆる群雄割拠の時代区分である。戦国の英雄たちが大方出揃うのはこの時期である。

 

 

細川政元 三好長慶 松永久秀

大内義隆 尼子経久 毛利元就

大友 龍造寺 島津 長宗我部


6三好政権

 

 

 

 

1549 天文18年

長慶、父の仇三好政長を討ち取る 

 

三好長慶は父の仇三好政長の打倒を決意た。2月には遊佐長教ら河内衆が政長の本拠榎並城を攻撃するため十七箇所へ進軍し、長慶自身も榎並城へ向けて軍を進めた。このとき柴島城にいた政長は、長慶迫ると聞き城を出て防戦したが、衆寡敵せず長慶方の圧倒的多勢の前に浮足立ち、城を捨てて榎並城へ退いた。このころには周囲のほとんどが長慶方に寝返っていたので、晴元方は榎並城ただ一箇所となって長慶方包囲の中に孤立した。彼らはひたすら近江の六角定頼の救援を待ち望むのみの状態となっていた。その六角氏も長慶方包囲の中で救援困難となり、榎並城の憂色が濃くなってきた。政長は六角軍の来援を待ち切れず6月、遂に榎並城を出て江口の里に陣を築いた。ここは三国川と淀川の分流点で城郭もなく、中島方面から攻められれば一たまりもない場所であった。「愚人夏の虫と云は是なるべき」と喜んだ長慶は弟の十河一存に江口砦の西の木戸から攻めさせ、自らは東の木戸から攻撃をかけた。兵糧攻めにあって空腹の守兵は戦意なく、名だたる政長の被官の多くが討死し、政長は淀川を泳ぎ渡って榎並城へ逃げようとしたが、遊佐氏の手兵に討ち取られた「江口の戦い」。(新修大阪市史・門真市史参照)  

 

 

長慶、主君の晴元・将軍義輝を追放 三好政権誕生 

 

三好政長討死を知った細川晴元は逸早く摂津戦線から離脱し、京都に向けて逃走した。それを追うように三好長慶の軍も攻め上り、晴元方を打ち破って晴元を京都から駆逐した。晴元は足利義晴とその子義輝(天文15年に十三代将軍就任)を奉じて近江坂本常在寺に逃れ、以後、実権を回復することはなかった。応仁の乱後に幕府の実権を握り、畿内に大きな影響を与えてきた細川家の権勢が、ここに消滅したのである。事実上の滅亡と言ってよい。一方、長慶は京都・畿内を制圧し、将軍・管領を前提としない状態の畿内大名権力、三好政権が誕生した。(丹波戦国史・向日市史・泉大津市史参照)        

 

 

大内、神辺城を攻略 備後平定 

 

五年も続いた神辺城の攻略戦が大詰めを迎えた。天文13年(1544)に神辺城の杉原理興が尼子方へ寝返って以来、毛利元就らによる大内方の攻撃が行なわれていたが、本格的な攻略戦が始まったのは二年前からである。天文16年(1547)4月には五ケ龍王山城を攻略し、17年(1548)5月には茶臼山城を陥落させた。翌6月からいよいよ総攻撃が開始され、神辺固屋口における合戦では熾烈を極めて双方に多数の死傷者を出したが、この年の天文18年(1549)に至るまで、なおも神辺城を攻略できないでいた。そんな折、平賀隆宗から大内義隆に「自分は杉原氏に対して宿怨があるから、この攻撃は自分に任せていただきたい」との申し出があった。義隆はこれを認め、後の処理を平賀氏に任せて帰国した。その後の平賀氏の奮戦すさまじく、さしもの城兵もこれを支えきれず、理興は9月秘かに城を脱して出雲に落ちていった。翌年には、毛利軍によって杉原氏と共に寝返った志川滝山城の宮氏を攻めて敗走させ、備後西南部を大内氏の傘下に組み入れた。(広島県史・井原市史参照)

 

 

松平広忠暗殺 

 

3月、二十四歳の松平広忠(家康の父)が家臣岩松弥八に城内で殺害され、松平家に後嗣が途絶えるという事態が起こった。広忠は縁に出て近親に灸を見せていたところを、弥八という人物によって背後から切りつけられたという。逃げ出した弥八は大手先の堀の中で討ち取られた。彼は織田信秀が広忠暗殺のために送り込んだ刺客であった。以上は「岡崎領主古記」の記すところであるが、「三河八代記古伝集」では、広忠は昼寝をしているところを斬られたといい、植村新六郎が弥八を外堀端まで追い詰めて首を取ったとある。新六郎は天文4年に松平清康の仇阿部弥七郎を討ち取っているので、二代の仇を報じたことになる。今川義元が広忠の死を知ると、義元は直ちに太原雪斎らに三百余騎を添えて岡崎城に送り込んだ。ここに至って松平家中は今川氏の直接指揮下に入り、以後約十年、三河が今川氏の領国として扱われることになった。(名古屋市史参照)

 

 

今川、竹千代(家康)を奪還して駿府に送る 

 

松平広忠が死ぬと、松平家中では竹千代(家康)が織田方の手にあることから、織田氏への服属論もあったようだが、今川義元の素早い岡崎城占領によってその道は閉ざされた。以後、松平家は竹千代を取り戻してその成長に期待を繋ぐことになる。さっそく行動が開始され、3月、岡崎に進駐していた今川軍が矢作川西岸の山崎砦を攻め落とし、織田信広(信長の庶兄)が守る安祥城に迫った。先鋒の松平勢はよく戦って三の丸・二の丸を破ったが、織田方も平手政秀らの後詰が送り込まれて必死で城を守った。しかし両者奮闘の末、11月には安祥城は陥落して信広が捕虜となった。翌日、平手氏との交渉によって信広と竹千代が交換され、竹千代は二年ぶりに岡崎へ帰ることになった。松平家中はようやく主君を奪い返したわけだが、義元の命令で竹千代は駿府に居住することとなり、同月、岡崎を出発した。齢八歳の時である。(岡崎市史参照)                                                                                                                                                                                        .                                

 

信玄、佐久を奪回 

 

昨年、「塩尻峠の戦い」の勝利で体制を立て直した武田信玄は、「上田原の戦い」で失っていた佐久平を取り戻そうと、小山田信有を大将にして出陣させた。ところが小山田氏は、田ノ口城まで進軍したところで佐久勢に囲まれ散々な目にあって帰陣した。負け続ければ再び離反者の蜂起を招くと見た信玄は、今度は自らが出陣することにした。上原城を発ち、矢戸・海ノ口・宮ノ上・臼田を経て前山城下に着陣した信玄は、ここで大雨の中、前山城を攻め落として数百人を討ち取り、同城を奪還した。更にその勢いで、前に小山田氏を悩ませた佐久勢を一蹴した。するとこれに恐れを成した近辺の十三城がみな城を開いたため、ここに佐久郡は再び信玄の手に取り戻された。(長野県史・山梨県史参照)

 

 

 

1550 天文19年

将軍義輝挙兵 敗退 

 

5月、十二代将軍足利義晴が近江穴太で不遇の生涯を終え、その家督は義輝が継いだ。義輝が当面の課題としたのは、言うまでもなく三好長慶を倒して京都を奪還することである。しかし僅かな軍事力しか持っていない義輝にとって、それは容易なことではなかった。そこで義輝は背後で支援してくれる六角定頼の存在を頼りとした。義輝の京都奪還の成否は、まさにこの六角氏の支援にかかっていたといっても過言ではない。6月、義輝は京都の中尾城に入って挙兵、これが京都奪還を狙う義輝の軍事行動の第一歩となった。しかし長慶がこれを黙止するはずがなく、10月になると摂津より三好勢を大挙上洛させた。京都には六角勢が東山に陣取り、両者の睨み合いがしばらく続いた。ところがなぜか六角勢は一カ月たらずで東山の陣を解いて近江に引き揚げた。ために11月、三好勢の攻撃によって中尾城が陥落し、義輝は坂本へと逃げていった。長慶はそれを深追いせず京都の経営に専念した。(新修大津市史参照) 

 

 

信玄、府中を占領 小笠原を追う 

 

佐久郡を平定した武田信玄はその勢いを以って信濃の経略を本格化させた。当面の目標は小笠原長時の本拠林城の攻略である。小笠原氏の縁戚である大町の仁科道外が信玄に誼を通じてきたことで、その実行時期が早まった。7月、信玄は甲府を発ち、かねて前進基地として用意してあった村井城に入った。ここで信玄は林城の出城のひとつである「イヌイノ城」(不詳)を攻略して勝鬨を挙げさせた。すると林城にいた小笠原方の将兵は、その鬨の声を聞いて浮き足立ち、深夜0時ごろに城を捨てて逃亡した。その事態を目の当たりにした深谷・岡田・桐原・山家の諸城もまた雪崩打つように四散し、更に島立・浅間の二城も降参、小笠原氏の重臣も続々と信玄に従うところとなった。かくして府中はほとんど兵力を損せずして信玄の手に転び込んできたのである。松本平を掌握した信玄は林城を破却した後、信濃経略の新たな基地として深志城(松本城)の修築に取りかかった。一方、敗れた小笠原氏は平瀬城を経て中塔城に落ち延び、やがて村上義清を頼っていった。(山梨県史参照)

 

 

信玄、村上氏に大敗 

 

小笠原長時を逐って府中を手に入れた武田信玄は、次に村上義清の属城砥石城を目指して進軍した。それと並行して、このとき既に信玄に服属していた真田幸隆に川中島地方へ赴かせ、諸武士の招降に努めさせた。幸隆は、天文10年(1541)に海野平で信玄と戦い敗れて信濃を逐われていた人物である。信玄率いる軍は長窪を経て砥石城に近い屋降の地に陣を据えた。ここで信玄は砥石城の城際まで陣を寄せ、総攻撃をかけたが戦果を挙げることができず、膠着状態となった。この間にも真田氏による工作は進められており、高井の須田氏が投降するなどの成果が出つつあった。しかしその甲斐なく、信玄はますます不利な状況にはまり込むばかりであった。なぜなら村上義清が今まで敵として戦っていた高梨政頼と和睦し、両者連合して武田方の寺尾城に攻め掛かってきたのである。寺尾城はかろうじて真田氏の救援によって落城を免れたものの、この状況では砥石城の攻略は極めて難しい状態に陥ったため、信玄はひとまず攻略を断念して全軍に撤退を指示した。ところが村上勢が、撤退を始めた武田勢を追尾し猛攻をかけてきたので、武田方の重立った者千人ばかりが討ち取られて武田勢の大惨敗となった。俗に「砥石崩れ」といわれるこの敗戦で、武田方の武士は武具などもみな道に捨て、身体ひとつで逃げ帰った者も多かったという。一方、村上氏はこの勝利が大きな自信となり、小笠原氏を援けて平瀬城へ進出した。(長野県史参照) 

 

 

小笠原、野々宮で武田勢を撃退 

 

武田信玄が砥石城で村上義清に大敗すると、小笠原長時は失地を回復しようと、村上氏の後援を得て平瀬城に入った。その報が甲府に届くと、信玄はこれを迎撃するために中下条まで出陣した。このころ村上氏は三千の兵を率いて塔ノ原に陣を張り、小笠原氏も平瀬城から氷室に移って深志城の奪回を図った。ところが信玄がこちらに向かっているとの報を得た村上氏は、その夜の内に小笠原氏に無断で兵を納め、川中島へ帰ってしまった。それを知った武田勢はすぐさま攻撃に転じ、梓川を越えて野々宮で小笠原勢と戦った。結果は小笠原氏が辛くも勝利した。今では譜代家臣の多くが武田方に転じ、また村上氏に見放されたことを嘆いていた小笠原氏は、この勝利を思い出に潔く自刃しようとしたが、重臣に諌められて二木豊後の中塔城に避難したと伝えられる。(長野県史・山梨県史参照)

 

 

 

1551 天文20年

陶隆房の乱 陶、主君の大内義隆を殺して実権を握る 

 

陶隆房が主家の当主である大内義隆の殺害を謀って居所の築山館を襲った。いわゆる「陶隆房の乱]である。乱を起こした理由は、義隆が富強に乗じて風流華美を好み、文事にふけって武事を軽んじたためとされている。度々の諌言にも耳を貸さなかったので隆房がこの暴挙に出たという。隆房は事前に大友宗麟(義鑑の子)の弟義長を大内家後嗣に立てて乱を決行し、8月。義隆を築山館から追い出した。義隆は落ち行く先も決めかねるまま、山伝いに美祢郡岩永に出て大津郡仙崎に到着し、さらに海路を北上して津和野三本松城の吉見正頼を頼ろうとした。しかし仙崎を出港した義隆一行の船は北風のため浪が高く、たちまち吹き戻されて進退窮まり、9月、義隆は深川の大寧寺に入って重臣警固の中で自刃した。ここに周防・長門・石見・安芸・備後・筑前・豊前七カ国の守護として南北朝以来山陰・山陽・四国・九州の勢威をふるった大内家の直系が消え、隆房が大内領の支配権を握ったのである。乱の後、大内家臣団の中で義隆に殉じる者もいたが、隆房に同調した重臣や行動を共にした氏族も少なくなかった。毛利氏もその一人である。義隆の援助を受けながら家を興していった毛利元就にとって、隆房の暴挙は黙止し難いものがあったが、自家の実力を考えれば、ひとまず隠忍自重するしかなかった。だがこのままずっと隆房の下風に付いている元就ではない。秘かに隆房打倒の策謀を凝らし、周辺諸将と語らって実力を蓄え、これより三年後に大勝負に出る。(津和野町史・岩国市史参照)

 

 

毛利氏のこれまで 

 

永正13年(1516)、毛利家当主の興元(元就の兄)が死んだため、二歳の嫡子幸松丸の後見役として毛利元就が当家を支えることになった。その元就が逸材としての頭角を現したのは、翌14年(1517)の有田合戦で尼子方の武田元繁を討ち倒したことである。それは後世よく織田信長の桶狭間の戦いに比べられるほどの快挙であった。この活躍によって、元就の存在は毛利家中は勿論、近隣諸豪にも知られるようになり、以後、毛利家は元就の差配で戦局が動くようになっていった。大永3年(1523)には元就は時流を読んで大内氏から尼子氏に寝返り、先陣を務めて大内方の鏡山城を攻め落とすなど、尼子軍の南下に大きく貢献した。この戦いの後、幸松丸が病死したため、元就が世継ぎとして迎えられ、本拠の郡山城に入った。名実共に毛利家の頂点に立った元就は、天文6年(1537)、再度の大内復帰を果たしてからは、大きな決意を持って尼子氏との対決に挑むようになり、天文9年(1540)の郡山合戦で襲い来る尼子の大軍を撃退した。これ以来、芸備の豪族の多くが尼子氏から毛利方に寝返ったことにより、中国における大内陣営が大躍進を遂げた。これに気をよくした大内義隆はその二年後、尼子討伐のために出雲へ向かった。結果は義隆が這々の体で遁走するほどの大敗北を喫し、ここから大内氏の転落が始まる。義隆は戦いに倦み、風雅の道にはまり込んだのである。それを見かねた元就は大内氏からの独立を模索するようになった。元就は義隆に憚ることなく独自の縁組を実行、天文13年(1544)には三男隆景を竹原の小早川家に入れ、天文16年(1547)には次男元春を日野山の吉川家に入れた。かくして毛利・吉川・小早川の連合体を作った元就は「両川」を中心に近隣諸豪と語らい、仲間を増やして芸備および瀬戸内水軍らを含む広大な勢力圏を形成していった。そんな矢先の天文20年(1551)、「陶隆房の乱」が勃発した。毛利家が大飛躍を遂げるための絶好のチャンスが到来したのである。(大朝町史参照) 

 

 

龍造寺氏没落 

 

陶隆房の乱は九州の情勢に大きな影響を与えた。龍造寺隆信にとってもその例外ではなかった。隆信は気性が激しすぎる傾向があったため、むしろ一族の龍造寺鑑兼を立ててはという者があり、宿臣土橋栄益もその一人であった。土橋氏は、大内義隆が陶隆房に殺されたことを聞くと、今がチャンスとばかりに、隆信を廃して鑑兼を主にしようと、大友宗麟に通じて同志を糾合した。集まった諸将は神代・高木・小田・八戸・江上・横岳・馬場・筑紫・姉川・本告・宗・藤崎・出雲・綾部・朝日・犬塚・多久・有馬らであった。10月、土橋氏はこの大軍団を率いて龍造寺氏の水ケ江・村中両城を囲んだ。このとき蓮池城の小田氏が隆信に城の明け渡しを勧めたので、隆信はこれを受け入れて城を出ていった。土橋氏は空城となった水ヶ江城を接収して鑑兼を据え、大友氏の援助の下で自らの権威を恣にした。一方、城を出た隆信は妻室を始め一族家臣を伴って筑後の堤津に逼塞した。ここに戦国大名龍造寺隆信は、ひとまずではあるが、没落したのである。尚、隆信没落の顛末を哀れに思った下妻郡蒲池城の蒲池鑑盛は、大友氏の許しを得て隆信以下の男女百余人を同城に迎えている。(佐賀県史参照)   

 

 

織田信秀死去 信長が跡を継ぐ 

 

織田信秀が死去した。同じころ清州城にあった守護代織田達勝もまた姿を消した。達勝は信秀にとっては上級職の主人であった。彼の死によって信秀側も痛手を被ったと推察され、尾張国内の混迷は一層深まったと思われる。信秀の立場は尾張守護代織田家の家臣、つまり守護斯波氏からは二階級下層の低い身分の家柄であったが、しかしその軍事力は守護家・守護代家を凌ぐ勢力を持っていたため、暗に内外が認める尾張一の実力者であった。とはいえ、その勢力拡大があまりにも短期間であったので、家臣達の多くは服属して日が浅く、何よりも守護斯波氏や守護代織田達勝の支援に支えられたものであった。従って信秀・達勝という相補完し合っていた両人の死によって、尾張はその統制力を失ったのである。今後の国内諸勢力の掌握と他の戦国大名との競合に打ち克つという課題は、信秀の跡を継いだ嫡男信長が新たに背負うことになった。その信長だが、どうにも行儀がよくない。いつも胴衣の袖をはずし、半袴の腰に火打袋をたくさんぶらさげたまま平気な顔で那古野の町辻をのし歩くので、人々から「うつけもの」と陰口を聞かれていた。また信秀の葬儀のときには、信長は亡父の霊前につかつかと進み出て、抹香をクワッと掴み取り位牌に投げつけたのである。その有様を見た人々はみな驚き呆れ、「大うつけ」といってささやきあった。ところが、はるばる筑紫の果てからやって来た名も知れない一人の老僧が「あれこそ乱世に国を保つお人じゃ」と呟いたという。この無名の旅僧だけが信長の真価を見抜いたのだ。(名古屋市史・日本の合戦参照)

 

 

信玄、砥石城を攻略 小県郡を支配 

 

二度までも村上義清に大敗した武田信玄は、方針を変えて真田幸隆に砥石城の攻略を託した。結果はあっけなく砥石城が落城し、小県郡が一気に信玄の支配下に入った。謀略をもって村上方の諸士を武田方に引き入れたのであろうか。いずれにせよ大敗を喫していた難攻不落の城を、大軍を催すことなく陥れたのである。小県の事情に通じていた真田氏ならではの功績といえよう。こうした小県郡の支配に動揺した村上氏は、信玄を牽制するかのように筑摩・安曇両郡へ出兵して丹生子を陥れた。それを知った信玄は深志城に入り、ここで直ちに平瀬城を陥れると、更に小岩嶽城を攻めてこれを放火するなど、信玄は休むことなく北信へと迫っていった。(塩山市史・山梨県史参照)

 

 

 

1552 天文21年

長慶、将軍義輝と和睦 

 

1月、三好長慶は足利義輝と和睦して京都に戻し、また細川氏綱を管領に推戴した。細川晴元に対しては幼児の昭元を人質に取り、晴元を剃髪させて近江に逐った。2月になると長慶・氏綱らは入洛して幕府に出仕し、長慶は義輝の供衆に、氏綱は右京太夫に任じられて管領となった。長慶は下克上の典型のように見られているが、このように案外古風にして律儀な性格で、圧倒的な武力を擁しながら義輝や晴元を徹底的に追却しようとはせず、何度かその機会がありながら見逃した。ここに近代の扉を開き得なかった彼の限界を見ることができる。それはともかく、永正の大乱以来四十五年続いた細川家の紛争はここに終止符が打たれ、三好家が細川家と将軍家に代わる権力者となったのである。だが、その政権は安定というにはほど遠いものであった。晴元がなお政権奪回の機会を窺い、これに呼応して反三好の勢力が各地で行動を起こしていたからである。早くも翌年にはその動乱が始まる。(岡山県史・向日市史・かわにし参照)

 

 

三好義賢、守護細川持隆を倒し阿波の実権を握る 

 

阿波守護細川持隆(細川晴元の従兄弟)は家老三好一族を呼び集めて「足利義維を将軍に据えたい」と述べた。義維は元「堺公方」といわれた人物で、天文元年(1532)に堺幕府が崩壊した後、持隆に迎えられ、阿波の平島荘にあって「平島公方」と呼ばれていた。義維は未だ将軍への夢を捨てていなかったので、持隆は義維のその意思を代弁して衆議に掛けたのである。一同は賛成した。しかし三好義賢(長慶の弟)は一人この議に同意せず、持隆を罵った。驚いたのは持隆のみならず一座、案に相違した思いであった。持隆はこれを怒り、義賢を討って怒りを散ぜんと奉行人の四宮与吉兵衛に内談した。その結果、義賢を呼び出して討ち果たすことに一決したが、四宮氏は義賢にかえり忠をして秘かにこれを知らせた。義賢はすかさず一族を集め、勝瑞の北にある龍音寺に攻め込んで持隆を自殺させた。持隆の死後は子の真之が継いだものの、このとき阿波屋形の細川家は事実上滅亡し、代わって三好家が阿波・讃岐・淡路三国の実権を握ったのである。時あたかも義賢の兄の三好長慶がその主細川晴元を逐って実質的な天下号令者となった、その同じ年である。(徳島県史・美馬町史参照) 

 

 

西讃岐諸氏、河野方に編入 

 

三好義賢は阿波・淡路・讃岐三国の支配権を獲得したものの、讃岐については細川氏との繋がりが強い地域だったので、その対応には慎重さが必要であった。そこで義賢は長慶・義賢とも兄弟である讃岐十河城の十河一存に、国中にいる元細川家臣を味方に引き入れるべく調略を依頼した。一存はこれを受け、さっそく行動に移した。まずは安富盛方・寒川政国らと語らって彼らを味方に付け、更に香東・香西・綾南条・綾北条の四郡を支配する讃岐の有力武将香西元成に降伏を促した。香西氏は細川氏滅亡後は三好氏に従う他に道なしとしてこれを受けた。一存の調略もここまでは順調だったが、一人彼に従わない者がいた。多度・三野・豊田の三郡を領有する香川景則である。彼は伊予の河野氏と親しくしており、河野氏と共に安芸の戦国大名毛利元就に従おうとしていたのである。当然、一存はこれを許さず永禄元年(1558)に香川討伐軍を発する。(善通寺市史・倉敷市史参照)  

 

 

尼子、備後に席巻 

 

大内義隆が陶隆房(晴賢に改名 ここでは隆房で統一)に殺されると備後国人の多くが動揺した。その上、尼子晴久が出雲・伯耆・備後・備中など八カ国の守護に将軍から任じられたこともあって、国人の中から尼子方に転じる者が出始め、旗返城の江田氏・甲山城の山内氏・蔀山城の多賀山氏・南天山城の和智氏・釜峰山城の油木氏・西城の久代宮氏・東城の小奴可宮氏・志川滝山城の宮氏らが尼子方となった。一方、背後を脅かされる形となった毛利元就は、隆房に援軍を要請して備後出撃の準備を開始した。元就は表面では隆房の命を受けて尼子氏と対抗していたが、実は秘かに隆房打倒を画策し、陶氏に対抗しうる勢力の拡大を図っていた。つまり毛利・両川(小早川・吉川)が核となって尼子氏や陶氏に反感を持つ豪族たちと語らい、仲間を集め、急ピッチで同盟体制を強化している最中であった。備後では既に鷲尾山城の木梨杉原氏・比叡尾山城の三吉氏らが逸早くこの体制に組み込まれていたが、目指すは備後全ての掌握である。今は隆房の力を借りてでも、備後国人を我が手に収めなければならなかったのである。(三原市史・庄原市の歴史参照) 

 

 

信長、清洲守護代家と対立 

 

織田信秀の死後、早くも尾張国内に不穏な動きが起こり始めた。清洲城の守護代織田信友とその老臣坂井大膳らが、信長方の松葉城・深田城を押さえて両城から人質を取り、信長に敵対する姿勢を明らかにしたのである。そもそも清洲城には守護斯波義統と守護代織田信友がおり、信長の父信秀はこの守護代信友の家臣として働きながら尾張国の治安維持に勤しんでいた。清洲守護・守護代家もまた信秀の軍事力を頼りにするところが大きく、いわば持ちつ持たれつの関係であった。ところが信秀の死によってその関係が崩れ、守護代信友が信秀方を妬んでその勢力を削ごうとしたのである。さっそく信長(信秀の子)は那古野城を出て海津方面へ向かい、萱津の地で清洲守護代方と戦った。守護代方は坂井氏が信長方の柴田勝家に討たれて歴々五十騎が戦死したという「萱津の戦い」。松葉・深田方面でも守護代方は多数の死傷者を出して敗れ、両城を信長に明け渡して清州城へ引き揚げた。それを追うように信長は清州城に迫り、田畑の作物を刈り取って帰った。以後も清州方との戦いが続く。(名古屋市史参照) 

 

 

北条、上杉氏を駆逐し上野を制圧 上杉、名家の重宝を長尾氏に譲る 

 

北条氏康に逐われて上野平井城に籠もっていた上杉憲政は、辛うじて関東管領の面目を保っていたものの、衰勢は年ごとに増していた。その頃合いを見て、氏康は上野に侵入した。すると赤石城の那波宗俊や西上野の諸氏が北条方として参戦し、更に憲政の馬廻衆までもが氏康に通じてきた。家臣に見捨てられた憲政は孤立無援となって、遂に城から脱出し、逃避の途に就いた。その道中で味方の金山城の由良成繁や足利城の長尾景虎を頼ったが入城を拒否され、やむなく長尾景虎に助けを求めて越後に入った。さて、ここから上杉謙信の登場となる。越後に入った憲政は景虎を養子に迎え、上杉重代の太刀、永享の乱のとき朝廷より下された錦旗、関東管領補任の綸旨、家の系図などの重宝を譲ってしまった。つまり上杉家は憲政を以て最期の幕を閉じ、景虎(後の上杉謙信 以後、上杉謙信で統一)が上杉家の当主となったのである。他方、上杉氏に捨てられた上野は無主の国となり、中心を失った上野の諸氏は、国峰城の小幡氏をはじめ多くの者が氏康に誼を通じたのは当然であろう。これより北条氏の勢力は一挙に上野に浸透していった。(上越市史・川越市史・群馬県史参照) 

 

 

公方、北条氏に屈服 北条、関東一円を支配 

 

上杉憲政が越後に逃れ、上野が北条氏康の支配下に入ったことから、憲政と同盟を結んでいた古河公方足利晴氏もまた氏康への屈服を余儀なくされた。そもそも公方晴氏は、氏康の妹芳春院を室に迎えていたにもかかわらず、天文15年(1546)の河越合戦のとき氏康を裏切って憲政に味方したので、これまでの両者の関係は冷え込んでいた。更に公方晴氏は昨年、晴氏と芳春院の子義氏ではなく、晴氏の重臣梁田晴助の間の子藤氏を後嗣としたことで、更なる緊張を高めていた。そのような経緯の中で憲政の越後逃走劇があり、上記公方の屈服という事態となったのである。これによって古河公方は完全に氏康の支配下に組み込まれ、公方の支持基盤である関東東部が北条氏の支配圏に入った。但し今はまだ見せかけ上の支配であり、彼ら全てを屈服させられたわけではない。やがて上杉謙信を盟主とする反北条連合が組織され、北条氏の正念場を迎える。(小田原市史・埼玉県の歴史参照)  

 

 

信玄、東筑摩郡を制圧 

 

武田信玄は信濃の制圧を目指して深志城を北進し、まずは小笠原長時の支城小岩嶽城を包囲した。城兵はよく戦ったが支えきれず城主が自害し、五百余人が討ち取られて落城した。このとき武田方が捕えた足弱(老人・女・子供)は数知れずというほどであった。ここでも志賀城陥落のときと同じ悲惨な結末が演ぜられたのである。小岩嶽城に続いて日岐城も武田勢に落とされると、中塔城に籠もっていた小笠原氏は孤立無援の状態となり、夜闇に乗じて息子と草間へ落ち延びた。小笠原氏のその後は高梨氏の手引きによって上杉謙信の許へ赴き保護を受けている。一方、小笠原氏を追い出して東筑摩郡を制圧した信玄は、更に筑摩郡北部へも兵を送って会田城・虚空蔵山城を攻め落とした。するとこの動きを敏感に察知してか、屋代・塩崎氏ら北信南部の村上方武士団が信玄に内通してきたため、ここに至って村上義清の退勢がはっきりと見えてきた。東北から真田幸隆が迫り、西方から地元武士団に寝返られては、豪勇を誇る村上氏も四面楚歌となったのである。(長野県史・小諸市誌参照)

 

 

 

 

1553 天文22年

長慶、将軍義輝を再び駆逐

 

近江に流遇していた細川晴元が京都奪回に動き出した。これに将軍足利義輝・近江観音寺城の六角義賢・摂津芥川城の芥川孫十郎・丹波八上城の波多野晴通らが加担したため、京都に駐屯していた三好長慶は西と東から挟撃される形となった。長慶の本拠はこのときなお摂津越水城にあったので、晴元方の一斉蜂起は、このように兵站線の延びきった三好軍の弱点を衝いたものである。しかしこうした長慶の危機は家臣の松永久秀らの奮戦により3月、梅ケ畑で丹波勢を撃退したことによって小康を保った。やがて態勢を立て直した長慶は7月、京都郊外の各所で晴元軍を撃破し、8月には芥川城に後詰を残したまま大軍を上洛させ、義輝方の籠る霊山城を包囲した。この霊山城での合戦は両軍鉄砲を撃ち合うという凄惨な修羅場と化したが、この戦闘によって長慶の優位は決定的なものとなった。義輝は僅かな手勢と共にいったん山城葛野郡の杉坂へ逃れ、丹波高原の山間を横断して葛川谷から朽木に辿り着いている。一方、長慶は返す刀で叛将芥川氏の討伐に向かい、これを兵糧攻めにした。全く孤立無援となっていた芥川城は陥落し、これを以って三好政権の畿内支配は不動のものとなった。(大阪府史参照)

 

 

長慶、波多氏の討伐に失敗 

 

将軍足利義輝らを京都から撃退した三好長慶は9月、松永久秀共に波多野晴通の討伐に向かい、拠城の八上城を攻めた。しかし天嶮の要害を利した八上城は容易に落ちなかったばかりか、波多野一族の激しい抗戦によって長慶の軍勢は敗走し、味方の内藤国貞が拠る八木城に逃げ込んだ。更ににそれを追ってきた波多野勢に八木城を占領され、遂に長慶・久秀らは京都に逃げ帰った。国貞も城を脱出して本目城に逃げ込んだが、ここも波多野勢に攻められて同城城代家老の内藤顕勝と共に国貞もまた討死した。内藤氏は国貞・顕勝らの柱石を失ったが、園部城や須知城などが未だ健在だったし、畿内で第一の実力者である長慶・久秀の庇護を受けていたので、内藤氏の勢力はかろうじて以前の勢力を保つことができた。尚、顕勝は久秀の弟の長頼の岳父であった関係から、久秀・長頼兄弟の憤激すさまじく、後に八木城を攻め立てて久秀の手に奪回している。(丹波戦国史・福知山市史参照)   

 

 

毛利、備後を支配 

 

毛利元就は吉川元春・小早川隆景のいわゆる両川を率いて、尼子方に寝返った備後諸氏の討伐に出陣した。これを予期していた尼子晴久もまた大軍を擁して中国山地をまっすぐに南下、旗返城の江田隆連・甲山城の山内隆通・釜峰山城の湯木氏らがそれを迎え入れたので、難なく備後に入ることができた。これより毛利・尼子の対決となる。春から秋にかけて七ヶ月の長期にわたり、三次盆地の周辺各地を戦場にして転々と戦われた。竹地谷川の古戦場跡に架かる橋は「大合戦(オンガセ)橋」として今もその名が残っている。結果は毛利軍が江田氏の旗返城を攻め落としたことで勝敗が決し、尼子軍は敗れて出雲に退去した。江田氏の滅亡と尼子軍の退去によって進退窮まった備後の国人たちは次々と元就に降った。まずは甲山城の山内氏が元就に降伏を乞うて安堵され、相次いで蔀山城の多賀山新兵衛尉・南天山城の和智誠春・釜峰山城の湯木氏・西城の久代宮氏・東城の小奴可宮氏らも元就に恭順の意を示した。最後まで元就に敵対した志川滝山城の宮音光も激戦の末に落城し、これによって備後全域は元就の勢力圏に入った。(広島県史・三次市史参照)         

 

 

毛利、備中南部に進出 

 

備中鶴首城の三村家親は、毛利軍が破竹の勢いで安芸から備後に侵入してきたのを見て毛利元就に同盟を申し入れた。備中は当時、松山城の庄為資が尼子晴久の後援を得て同国を支配しており、家親はその下で尼子陣営に服していた。智勇に優れていた家親は、やがて備中に覇を築こうと秘かに企み、その機会を待っていた。その矢先に毛利の快進撃を知ったのである。家親の乞いを快諾した毛利元就は、さっそく小早川隆景・吉川元春らを率いて備中へ出陣し、穂田実近(庄氏の一族)が守っていた猿掛城に打って出た。家親が先陣として矢掛の在々に放火したが、世に聞こえた勇者である実近は、敵に城下を焼かせてなるものかと家親を追い払い、元春とも勝負を決しようと勇み立った。しかし元春の強弓者が散々に射立て、更に元就の旗本が静々と打ちかかってきたので、実近は急いで猿掛城へ引き揚げた。その後は膠着状態となって両軍重ねて戦おうとはしなかった。実近はこれ以上毛利軍と戦えば庄家滅亡につながると思い、やがて降人となって人質を差し出した。元就はこれを許し、家親の嫡子元祐を実近の養子に入れて三村・庄両家の私恨を氷消させた「猿掛合戦」。これより猿掛城は三村氏の掌中に入り、更に鴨山城の細川氏・幸山城の石川氏らの近隣諸豪が相次いで降伏を申し出たため、家親は毛利陣営の基で備中南部を支配することとなった。(北房町史・井原市史参照)  

 

 

尼子、美作から浦上勢を撃退 

 

尼子晴久は昨年の対毛利戦に際して美作の将士を多数駆り出していたが、その隙に乗じて浦上宗景が美作の失地を回復するために、赤松晴政とも相通じて、美作国人の懐柔を図った。その甲斐あって、浦上氏とは旧誼の仲であった小田草城の斉藤実秀らを始め、多くの将士が浦上方に通じた。この報に憤激した晴久は、この年の3月、自ら二千八百の兵を率いて美作に入り、浦上勢の一掃を図った。宗景もまたこれに対抗すべく一万五千の兵で美作に進攻し、5月、高田城下にて両軍が激突した。合戦は数度に及んだが、結果は浦上方が利あらず撤兵し、勝利した晴久は家臣の宇山久信を高田城に、河副久盛を倉敷城に置いて出雲に凱旋した。(久米町史・旭町誌参照) 

 

 

龍造寺、旧領を回復 

 

肥後に没落していた竜造寺隆信が肥前への帰国を企てたのは昨年の事、そのときには、途中有明海城で暴風雨にあって杵島郡に漂着し、有馬の兵に妨げられて筑後に引き返している。次いでこの年に再挙した隆信は、7月には南川副の鹿ノ江から上陸を果たし、忠臣や旧領地の応援を受けて緒戦を次々に勝ち抜き、遂に8月、佐賀に帰り着いた。9月には隆信の佐賀復帰に驚いた勢福寺城の江上氏が降伏を申し出、和平が成って少弐冬尚と共に城を退出した。このとき蓮池城の小田政光から何の音沙汰もなかったので10月、隆信は同城を攻めた。戦いは激戦を極め、両方とも一族郎党の戦死者・負傷者を多数出した末に和議が成立した。そして隆信は水ヶ江城を攻め、土橋栄益が傀儡として据えていた龍造寺鑑兼を追放するとともに、隆信を追い落とした張本人である土橋氏を捕らえて誅殺した。翌年3月には、隆信は佐賀北方の高木鑑房を降し、10月には養父郡綾部城に入った少弐氏を破り、瞬く間に肥前東部の旧領を回復した。(佐賀県史・神埼町史・多久市史参照) 

 

 

信長、守護斯波氏を擁立して守護代家と戦う 

 

昨年から始まった織田信長と守護代家との戦いは信長方が優勢に進められ、清洲城内では内通者も現れるほどであった。同城に居住する守護斯波義統が信長に通じていることを察知した守護代織田信友の老臣坂井大膳は、義統の子義銀が川狩に出かけた手薄に乗じて館を襲い、義統を殺害した。川狩に出ていた義銀は身の危険を感じ、那古野に逃れて信長を頼った。信長にとって上位者守護代織田家に戦いを挑むのは本来遠慮があったかもしれないが、譜代相伝の主君義統を殺害したとあってはこれを見過ごすことができず、復仇のためという口実を以って戦いを挑むことになった。さっそく信長は清洲に進撃し、迎え撃つ清州方を安食・山王口で撃破して彼らを町口大堀に逐った。信長方の長槍に対して清洲方の短い槍では対抗できず、河尻左馬丞・織田三位ら主立った武士三十騎ばかりが戦死するという清洲方惨敗の戦いであった。「安食の戦い」。(名古屋市史参照)

 

 

信玄、村上氏を越後に逐う 

 

武田信玄の信濃進撃は続いた。3月、甲府を発した信玄は深志城を経由して苅屋原に着き、4月には苅屋原城を攻略した。するとその北西方に隣接する塔ノ原城が戦わずして開城した。その後、信玄は麻績から更科に進み、村上義清の本拠葛尾城を攻略するために坂木に向けて進軍した。その過程で、既に武田方に内通していた屋代氏や塩崎氏らが信玄の許に出仕してきた。屋代氏は村上氏の支族で同家筆頭の家格であり、代々村上家の老職をつとめてきた家であったから、彼の寝返りは村上氏の戦意を全く喪失させたようである。そのため守り切れないと判断した村上氏は本城葛尾城を焼いて逃亡した。北信において最大勢力を張っていた村上氏も、四百余年にして遂にその所領を失うことになったのである。葛尾城を脱出した村上氏は、高井郡中野の高梨政頼を頼って春日山城の上杉謙信に救援を求めた。謙信は北信が武田氏の支配下になれば越後も危機に晒されると判断し、村上氏の懇願を聞き入れて直ちに出陣の準備に取り掛かった。これより信玄と謙信の直接対決が始まり、五度に渡る「川中島の合戦」の幕が切って落とされる。(山梨県史・更埴市史・長野県史参照) 

 

                                                              謙信(長尾)、村上氏と共に信濃に出陣 

 

4月、村上義清から依頼を受けた上杉謙信は直ちにその請いを受け入れ、兵を川中島に進めさせた。このとき謙信は出陣せず、駆けつけたのは高梨政頼ら北信の武将を中心とした救援軍であったと思われる。いずれにしても五千と称する村上・上杉連合軍が反撃してきたのである。その報が武田側に届くや、武田信玄は八幡に向けて出撃して連合軍の侵入を防ごうとした。しかし連合軍は武田軍を撃退して退けると、更に南下して葛尾城を攻め取り、義清の旧領である小県郡の塩田城に入って再起を図った。一方敗れた信玄は、これに反撃することなく、青柳の陣所を引き払って深志城に帰陣し、次いで甲府に帰った。甲府にて将軍足利義輝の使者を迎え、嫡子太郎が将軍の名前の一字「義」をもらうことになっていたからである。太郎は義信と名乗った。7月、その儀が終わるとすぐに甲府を発進、内山城を経て長窪城に陣を張り、ここから和田城・高倉屋城に攻め込んで籠城衆を皆殺しにした。反抗者を徹底的にたたく厳しいやり方であった。これに恐れをなした十六の小城が戦わずに落城し、塩田城にいた村上氏も逃亡して謙信の許へ走った。(長野市誌・更埴市史参照)

 

 

第一次川中島の合戦 

 

村上義清の敗北を知った上杉謙信は、遂に自ら信濃へ出陣する決意をした。「川中島の合戦」の始まりである。8月、謙信は春日山城を発して信濃に入り、布施城を落として八幡で武田軍を破った。更に謙信は荒砥城を落として筑摩郡に侵入、青柳を焼き、会田虚空蔵山城を落として坂木南条を放火した。対する武田方は「忍び」が越後軍の籠もる麻績城・荒砥城に放火し、また武田信玄も謙信の南下を防ぐために塩田城を出て善光寺平へ向かった。ところがなぜかその後、謙信は越後に向けて撤退を始めた。その報を得た信玄は追撃することなく深志城へ退いた。「第一次川中島の合戦」。このたびの戦いで謙信は会田・坂木あたりまで攻め込んだが、村上氏の旧領回復という目的を達成できぬまま撤退している。撤退した理由は、その後の動勢から見て、そのころ京都への上洛及び参内のことが予定されていたためである。謙信は上洛して奈良天皇から越後と信濃の敵を「治罰」したことを賞する綸旨を与えられた。信濃出兵の大義名分を得たと思ったことであろう。一方、信玄は村上氏を信濃から追放し、村上領全土の占領はかなわなかったまでも、更級・埴科南部を勢力圏に収めた。(長野県史・更埴市史参照)

 

 

 

1554 天文23年

武田・今川・北条三国同盟が成る 

 

武田・今川・北条氏の間に三国同盟が成立した。既に武田・今川氏の間には、天文19年(1550)に武田信玄の姉が今川義元に輿入れして以来の同盟関係があったが、信玄の姉が亡くなったので、天文21年(1552)に義元の娘が信玄の長男義信に輿入れすることで両家の関係が再構築された。三国同盟の話しが動き出したのは天文20年(1551)のこと、三国の使者が駿府に集まり、そこで一定の話し合いがなされたものと思われる。そして天文22年(1553)に北条氏康の使者が甲府に赴き、ここで信玄の娘と氏康の嫡男氏政との結婚を天文23年(1554)に行なうことが決められた。更に武田氏を仲立ちとして今川氏と北条氏とが、天文5年(1536)以来断絶していた友好関係を復活させるべく、武田・北条間の婚姻を待たず、天文23年(1554)7月に義元の嫡男氏真と氏康の娘との婚姻を進めることになった。同年12月には約束通り武田・北条間の結婚も行なわれ、ここに武田・今川・北条三者の縁戚関係ができ上がり、いわゆる駿・甲・相三国同盟が成立した。尚、こうした経緯・事実に対して近世に著された軍記物では、「善得寺の会盟」としてドラマチックな物語が創作されているが、古文書など信頼のおける史料ではそうした徴証が認められず、無かったというのが通説になっている。(静岡県史参照)  

 

 

信玄、下伊那を制圧 

 

武田信玄が信濃下伊那の制圧に乗り出した。天文19年に信玄によって松本平を追われた小笠原長時は、子息の貞慶を上杉謙信に託し、自らは百余人と共に弟信定のいる下伊那の鈴岡城に入っていた。信玄はまずその鈴岡城への攻撃を開始したのである。城方は防戦に努めたが衆寡敵せず城が落ち、小笠原兄弟は下条へ逃れた。鈴岡城を接収した信玄は、更にこの地方の宮崎・坂西・松岡・知久氏などの諸豪族に出仕を求めた。すると勢いに抗することを不可能とみた武士たちがみな信玄に降った。しかし神之峰城の知久頼元だけは降服しなかったので、信玄は兵を進めて同城を攻撃し、知久氏を捕らえて落城させた。一方、下条へ逃げた長時は吉岡城の下条氏に匿われていたのだが、風を読んだ近隣の者たちが長時を捕らえようと同城に攻めてきたので、長時は城を脱出して駿河、更に伊勢へと逃げていった。これによって下伊那は信玄の勢力下に入った。(長野県史参照)

 

 

毛利、吉見氏と連携して陶氏と断交 佐東郡を占拠  

 

毛利元就が遂に陶隆房と断交した。そのきっかけは石見津和野の領主吉見正頼が元就に援けを求めてきたことであった。吉見氏は昨年、隆房に反旗を翻したため、居城三本松城を陶軍に包囲されていたのである。期を窺っていた、元就はここで隆房打倒に立ち上がることを決断した。決断後の行動はすばやく、一挙に陶方の兵を追って銀山城・己斐城・草津城・桜尾城・仁保島城など佐東郡の諸城を占拠し、厳島までもその手に収めた。元就は厳島への築城を家臣に命じるとともに、自らの本営を吉田から銀山城に前進させた。また元就は吉見氏を救援するため、水軍を都濃郡富田浦に派遣して隆房の本拠若山城を厳島への築城を家臣に命じるとともにした。元就のこの行動に驚いた隆房は急いで吉見氏と和睦し、一転桜尾城の奪還作戦に出た。緒戦は廿日市西方の折敷畑で戦ったが、毛利軍によって撃退された。屈辱を受けた隆房は元就打倒の檄を飛ばし、周防・長門・豊前・筑前の兵二万余を率いて山口を進発、岩国の永興寺を本陣として反撃の準備に移った。こうして翌年、陶・毛利両軍は世に名高い「厳島合戦」の一大決戦を展開する。(広島県史・長門市史参照) 

 

 

長慶、播磨を支配 

 

摂津有馬郡は代々赤松氏の一族有馬重則が分郡守護として知行していたが、その有馬氏は東播磨に勢力を張る別所村治としばしば境争いを繰り返していた。そこで有馬氏は三好長慶に援軍を請い、別所氏の打倒を画策した。9月、要請を容れた長慶は播磨に入り、有馬氏と共に三木城を攻撃した。しかし別所氏が三木城で籠城策を取ったため、長慶は城攻めを諦め、支城七カ所を落としただけで早々と引き上げた。程なくして今度は置塩城の赤松義祐(晴政の子)から長慶に援軍要請が届いた。これを受けた長慶は11月、阿波・淡路の兵を明石表に派遣させた。長慶が赤松氏を援けようとしたのは、これを好機に晴元方である東播の別所氏や明石氏の勢力を潰しておこうと考えたからである。翌年1月には長慶自ら出馬して太山寺に陣を敷いたため、衆寡敵せず明石城の籠城兵は和睦を請うて開城降伏した。その後、長慶は軍を北へ進め、再び別所氏を攻めた。三木城はよく持ちこたえたものの支えきれず、別所氏もまた長慶と和睦、ここに播磨全土が長慶の支配下に入った。(兵庫県史・新修神戸市史・小野市史参照)

 

 

 

1555 弘治元年

毛利、安芸湾岸部を制圧 

 

毛利氏と陶氏の戦闘が開始されると、矢野城の野間隆実が陶方の態度を明らかにして反毛利の兵を挙げ、毛利方に就いたばかりの海田・仁保を攻撃した。そこで既に折敷畑で大勝を得ていた毛利元就は、すかさず次の目標を野間氏の討伐に定めた。4月、元就は三千余の軍勢を率いて矢野城を取り囲み、尾頸丸明神山口の激戦において野間勢を撃破した。野間方の敗残兵は降伏し、矢野城を明け渡して一応和談にもち込んだが、このとき元就は和談の内容を反故にして、城から出て来た者たちを皆殺しにしている。元就としては陶隆房との決戦を目前にしてやむを得ない決断であったに違いないが、非情な戦後処理といえよう。野間氏の降伏後は府中城の白井氏・蒲刈・倉橋の多賀谷氏らが元就に降伏し、安芸西部が元就の支配下に入った。(熊野町史・蒲刈町誌参照)      

 

 

厳島合戦 毛利、陶軍を撃破 周防東部を制圧 

 

野間氏を降伏させた毛利元就は、いよいよ厳島の戦いに毛利の命運をかけた。元就は劣勢の自軍が圧倒的な陶軍と戦うためには、その決戦場を厳島にもっていくしかないと考え、厳島の宮尾に城を築いて敵を誘導する作戦に全力を注いだ。9月、案の定、陶隆房は兵二万を率いて岩国の永興寺に着陣し、そこから厳島に上陸した。元就の思う壷にはまったのである。上陸の報を聞いた元就は直ちに四千騎を率いて銀山城の本営を発ち、厳島を目指した。幸いにも去就を明らかにしていなかった能島・来島の村上水軍の二、三百隻が毛利方として来航した。これらが夜陰に乗じて全軍渡海し、折からの暴風雨が毛利方の隠密行動を援護した。こうして毛利氏の一期を画すべき厳島合戦が始まる。10月、吉川元春は毛利主力軍の先頭に立って塔ケ岡背後の岡の上に布陣し、小早川隆景は塔ケ岡の坂下に陣列を敷いた。いざ鬨の声を合図に両軍呼応して塔ケ岡の陶軍本営を急襲した。不意打ちを受けた陶軍はたちまち大混乱に陥って敗走、海上に脱出した者たちも村上水軍によって次々と討ち取られた。進退窮まり、万策尽きた隆房はついに自刃して果てた「厳島合戦」。勝利した元就は兵を休める間もなく岩国の永興寺に本陣を進めて次の作戦計画に移った。山陽道を中軸とする陸路の先鋒は嫡子毛利隆元が担い、玖珂・熊毛・都濃郡の南部を迂回する海岸部は小早川隆景の部署とした。隆元の軍は、玖珂郡蓮華山城の椙杜房秦を服属させたのを手始めに、鞍掛城の杉隆康を討ち、山代地方の土豪を討伐してたちまち安芸西部を制圧し、更に都濃郡に進撃した。隆景の軍もこれに呼応して伊賀地の一揆を平定し、その後西へ進んだが、都濃郡では山崎興盛の拠る須々万沼城の守りが固くて落とせず、翌年への持ち越しとなった。(大朝町史・千代田町史・長門市史参照)              

 

 

信長、清洲に入城 

 

清洲城を守っていた守護代織田信友の臣坂井大膳は、織田信長に対抗する策として、信長の叔父守山城主織田信光に、信友と共に両守護代となって協力するよう働きかけた。信光はこの申し出を承諾して起請文を遣わし、4月に清州城の南矢蔵に移った。しかし信光は秘密裏に甥の信長にこれを密告し、信長に清洲城を渡す代わりに、於多井川を境に尾州を東西に分割してそれぞれお互いが支配するという密約を交わした。かくして信光はその密約に従って信友を自害させ、更に坂井氏を南矢蔵に謀殺せんとしたが、計画が露見して酒井氏は駿河の今川義元の許に逃亡した。こうして信光は清州城を手に入れ、同城を信長に引き渡した。これより信長は清洲城を居城として川東を、信光は信長から譲られた那古野城を居城として川西を治めることとなった。尚、この年11月に信光は不慮の死を遂げた。それは信長の手が加わっていたとする見方がある。(名古屋市史参照)                  

 

 

謙信、反北条連合を結成する 

 

関東は北条氏によって統一されたかに見えたが、ここに至って再び分裂抗争の時代へと逆戻りした。対立軸は今川・武田と同盟を組む北条陣営と、佐竹・宇都宮・里見らと連合した上杉陣営である。発端は昨年、古河公方足利晴氏が再び北条氏康に反旗を翻して北条退治を企てたことである。結果は却って晴氏が氏康に攻められて大敗、晴氏は幽閉され、氏康の娘の子である義氏に古河公方を継がせられた。このようにして公方家が全く北条一色に塗り替えられることとなったのだが、実はこのとき晴氏は密使を越後に遣わし、上杉謙信に救援を求めていたのである。これを受けた謙信は兵を上野に入れ、厩橋城にて関東諸将に檄を飛ばした。その檄を受けたのが北条氏に反感を持っていた安房の里見義堯、常陸の佐竹義昭・小田氏治、下野の小山高明らであった。おおよそ下野・常陸・安房が上杉方、下総が北条方となって、関東が東西に分裂する形勢となった。いざここで両陣営の激突かと思われたが、謙信が突如越後に引き揚げたので、関東の兵乱は寸手のところで回避された。引き揚げた理由は、武田信玄が信濃の木曽郡に攻め込んできたからである。今回の戦いは不発に終わったが、ここに謙信を盟主とする反北条同盟が結成されたのは確かであり、この大勢力が戦国の終盤に至るまで北条氏を翻弄することになる。(川越市史・下館市史参照)

 

 

信玄、木曽郡を掌握 

 

3月、武田信玄は小笠原長時の傘下にあった木曽義康の討伐に向かった。木曽郡に入ると、まずは千村俊政が守る贄川砦を落として平沢の森に陣を進めた。対する木曽氏は鳥居峠に陣取って信玄の侵入を阻もうとした。そのため信玄は稲核から迂回して奈川・萩曽村に入ることになった。そこから敵陣鳥居峠の反対側に入り込んで藪原を攻め取ろうと鬨の声をあげたところ、木曽勢は慌てて敗走した。信玄はこれを追撃せず、ひとまず藪原に陣取った。その後、信玄は木曽勢に攻撃をかけようとしたが、図らずも上杉謙信が信濃へ出陣したとの報を受けたため、一部の兵を藪原残して、武田の主力軍は急遽北信へ向けて進軍した。両軍は川中島で衝突したものの、その後和議が成ったので8月、信玄は兵を再び南下させて小沢川端で木曽勢を撃破した。結果、木曽氏は降伏し、彼の支配領域である木曽郡が信玄の勢力下に入った。(長野県史参照)

 

 

第二次川中島の合戦 

 

7月、上杉謙信は村上義清の領地を奪回するために信濃に向けて出陣した。その報を受けた武田信玄は、いったん木曽攻撃を中断して川中島へ向かい、犀川のすぐ南の大塚に陣を張った。二度目の北信出陣であった。このとき武田方に味方した善光寺別当栗田鶴寿が、栗田城を引き払って善光寺南西の旭山城に立て籠もったので、信玄はその旭山城に三千の人数と弓八百挺、鉄砲三百挺を贈って防備を固くし、越後方の南進を牽制させた。一方、謙信もまた善光寺の東に接する横山城に陣を張り、更に犀川を越えて南進してきたので、両軍は川中島で衝突した。結果は上杉方が多くの戦死者を出して横山城に逃げ帰った。その後、両軍の対陣は百日余りに及んで膠着状態となった。早く撤退したほうが負けである。なぜなら残った方が善光寺平全体をあっという間に掌握しかねない形勢だったからである。そこで今川義元が信玄の頼みによって和議の仲介に入り、謙信もこれを受け入れたため、両軍は撤退した。このときの講和の条件は犀川を以って武田・上杉両氏の支配圏境とし、旭山城を破却することもその条件に含まれた。したがって上杉方としては犀川以北の島津氏の旧領復帰はできたものの、村上義清の坂木還住は実現しなかった「第二次川中島の合戦」。(更埴市史・長野市誌参照)        

 

 

北条、内房に侵入 

 

北条氏康が房総に進出して金谷城を攻略した。金谷城は房総と相模三浦とを結ぶ航路の起点にあたり、北条氏にとって房総渡海時の上陸拠点となる重要な場所である。その城が簡単に手に入ったのは、里見家の内訌を氏康が巧みに利用したからであった。その経緯は天文16年(1547)に遡る。当時、里見義堯は金谷を中心とした海上支配を行なうため、金谷城を家臣の正木時忠に与えた。ところが保田郷柴村には地頭の正木弥五郎という人物がおり、元々は彼が金谷城を管轄する内房水軍の中心人物であった。それがこのたびの処置によって弥五郎が時忠の統制下に無理やり入れさせられ、それに伴って金谷城の支配領域で地頭の入れ替えも行われ、弥五郎が地頭を解任された。この交代によって弥五郎と時忠とが対立した。それに目を付けた氏康が弥五郎を語らって自軍に引き入れ、彼の手引きによって金谷城を攻略するに至ったのである。(千葉県の歴史・小田原市史参照)

 

 

 

1556 弘治2年

斉藤道三、子の義龍に殺される 

 

斎藤道三が子の義龍に美濃を譲って彼を稲葉山城主としたが、道三が隠居して鷺山城に退くと間もなく父子の間に対立が生じるに至った。「美濃諸旧記」によれば義龍の母は美濃守護土岐頼芸の元側室で、義龍を宿した身で道三の許とへ来たとある。義龍が我が子でないと思ったのであろう。道三は義龍を廃して弟の龍重を後継者にしようとしたふしがあり、そこから父子の対立が始まったようである。4月、道三の陰謀を察知した義龍は詭計をもって二人の弟、龍重・龍定を稲葉山城中に呼び出し謀殺した。これを聞いた道三は怒りに燃え、戦いを決意して兵を集めたが、その数わずか二千七百余人にすぎなかった。一方の稲葉山城には義龍に味方する国人がそくぞく馳せ参じ、その数一万七千五百余人が城下に充満した。義龍方は兵員といい戦意といい、はるかに道三方を圧倒していた。長良川を挟んで父子が激突したが、その戦いは激烈をきわめた。敵味方とも互いに見知りの者がいるので、後日の嘲りを恥じて双方必死に戦った。やがて時の経過とともに道三の敗色は濃厚となり、日暮れて城田寺に敗走するところを、かつての部下である小牧源太に道三の首をとられた「長良川の戦い」。尚このとき、織田信長は道三の救援に向かったが間に合わず、道三の死とともに織田・斎藤同盟が崩壊した。(多治見市史参照)

 

 

毛利、石見に侵入 

 

厳島合戦で大勝した毛利元就は、休む間もなく陸路を防府・長門に向けて進撃したが、須々万沼城において大内義長の派遣軍一万の兵に阻まれたため先へ進むことができず、ここに陣を敷いて長期戦の構えを採った。その一方で、元就は吉川元春に命じて石見に侵攻させた。目的は尼子軍の安芸侵入を阻止して毛利主力軍の防府・長門攻略戦の遂行を促すためである。3月、命を受けた元春は宍戸隆家・口羽通良らと共に、岩国を出発して石見に入り、石見跡市音明城の福屋隆兼、周布城の周布下総守らと連繋をとって石見阿須那に本営を置いた。そして鳥屋尾と高見の黒岩山に二城を築き、尼子方の川本温湯城主小笠原長雄を押さえながら、佐波領内から一気に大森銀山とその拠点山吹城を目指した。すると山吹城の将刺賀長信が元春の威風になびいて降伏してきたので、元春は難なく銀山と山吹城の奪取に成功した。次いで元春は邇摩郡の三久須・矢滝・三つ子の諸城を陥れて大森銀山への通路を遮断し、転じて安濃郡池田を収め、大田に迫る形勢をとった。(大朝町史・羽須美村誌参照)

 

 

大友、豊前を平定 

 

毛利元就の反乱は大友宗麟にとって豊筑経略の絶好の機会となった。宗麟は大軍を率いて豊後府内を発進、まず宇佐郡龍王城を落とし、ここを本陣として諸城を攻めさせた。宇佐郡は、旧宇佐宮領の地頭として長く大内氏との縁故の深い被官が多く、戦国時代には三十六人衆と呼ばれる国人衆がいた。その地頭がまずは降参し、次いで宇佐郡の妙見岳城、下毛郡の長岩城、京都郡の松山城、馬岳城、三ケ岳城、神田城、佐野城が陥り、彦山衆徒も降った。宗麟は田原親賢を妙見岳城に置いて龍王城と兼ねしめ、城本氏に田川郡の岩石城を守らせた。これ以後、豊前国人たちは毎年8月朔日に大刀馬の使を府内に遣わして君臣の礼を述べることにしたという。こうして豊前を平定した宗麟は田原氏を豊前探題とし、豊前の国人四百六十人を人質にとって妙見岳城に在番させた。ここに豊前は全く宗麟の支配下に入った。(中津市史参照)

 

 

信長、弟信行の反乱を鎮圧 

 

斉藤道三の死は、織田信長にとって尾張国内の反対勢力を抑えるための最大の支援者を失ったことを意味し、更に斎藤義龍が反信長方を支援する事態となった。さっそくその火の手があがり、尾張丹羽郡岩倉城の織田信安が義龍と結託して信長の留守中に清洲近くの下の郷を放火した。これを知った信長も報復に出て岩倉近辺の知行所を焼き払い、即日帰還した。これらの動きに呼応して信長の宿老であった那古野城の林美作守と、織田信行(信長の弟)の家臣柴田勝家らが信行擁立を企て、信長に反旗を翻した。対する信長は8月、兵七百を率いて清洲を発ち、於多井川を渡って稲生辺りで林・柴田らの兵と戦った。信長は最初に柴田勢を破り、ついで林勢に攻めかかり、信長自身が林氏を討ち捕って信行勢を追い崩した「稲生の戦い」。敗北した信行は那古野城に籠城したが、末森城にいた信長の生母(土田氏)が信行を取り成したので、信長は信行・柴田・林氏らを赦免して乱が終息した。(名古屋市史参照) 

 

 

下野諸氏、北条方に参陣 北条、上杉方と海老島で激突 

 

北条氏と上杉氏の戦いは、さっそく代理戦争という形で北条方の結城晴朝と上杉方の小田氏治との間で起こった。北条方には結城城の結城氏を中心に祇園城の小山高政・真壁城の真壁久幹・下妻城の多賀谷政経・下館城の水谷政村らが同陣し、それに北条氏康が派遣した江戸城の遠山丹波守・岩付城の太田資正らが参陣した。更に公方足利義氏の命を受けた鹿沼城の壬生綱雄・唐沢山城の佐野豊綱・館林城代の茂呂秀忠など、下野西部の諸氏も結城氏支援のために出陣した。一方、上杉方には太田城の佐竹義昭・宇都宮城の宇都宮広綱・烏山城の那須資胤らが小田氏への援軍として小田城に駆けつけた。結城氏ら北条方同盟軍は威風堂々と小田領に向けて発進し、筑波山の西方海老島に陣取った。やがて北上してきた小田氏が佐竹氏ら上杉同盟軍の援軍を得て海老島に着陣すると、両軍は山王堂付近で戦闘が開始された「海老島合戦」。結果、小田勢が総崩れとなり、小田氏は小田城を放棄して土浦城へと落ち延びた。勝利した結城勢はそのまま南下して空城となった小田城を接収し、小田領のほとんどを占領した。ところが結城勢が引き揚げると、小田氏の小田城復帰を許してしまい、小栗・富谷(中郡)・海老島・大島など一部の支城を除くほとんどの小田領地が小田氏の許に復帰してしまった。そもそも小田氏の打倒は結城氏のみの実力で実現したものでない以上、こうした結末もまた当然の成り行きであったといえよう。(結城市史・茨城県の歴史・牛久市史参照)

 

 

 

1557 弘治3年

毛利、防府・長門を平定 

 

毛利元就の本隊軍は須々万沼城に一年以上も足止めを受けていたが、3月、沼地を編竹と菰で押し渡る戦法が功を奏してようやく同城が陥落した。かくして防府・長門進出の最大の難関を突破した元就は、関を切ったように西へと軍を進めた。間もなく陶隆房の本拠富田若山城に押し寄せると、ここでは城兵があっけなく降伏したので直ちに防府に向けて進軍した。防府に入ると右田岳城の右田氏もまた元就に味方したので、そのまま山口に突き進んだ。一方、元就に呼応して津和野から南下してきた吉見正頼もまた逸早く山口に侵入し、築山館に残した大内義長の将を排除して山口を占領した。これに続いて防府より北上してきた毛利軍が吉見氏の軍と合流し、互いに協力しながら山口の掃討に当たった。そのころ義長は姫山・高嶺城に拠って元就の急迫に備えようとしていたが、今や家中諸氏の多くが勢いに押されて毛利軍に投降してしまっていた。ために形勢不利を悟った義長は山口を脱出、長門の且山城に走り、更にここから九州に渡って大友宗麟を頼ろうとした。だが義長は関門海峡を毛利方の村上水軍に押さえられて進退きわまり、いったん長府の長福院に退くも翌日毛利軍に攻め立てられ、遂に自殺した。その後もなおしばらくの間は防府・長門の各地で大内氏や陶氏らの遺臣による一揆が続いたが、11月には元就が都濃郡富田まで再出陣してこれを鎮圧し、ここに元就の防府・長門両国の平定が実現した。(防府市史・長門市史・津和野町史参照) 

 

 

毛利、石見西部を制圧

 

防府・長門を平定した毛利元就が次に目指したのは益田藤兼が拠す石見三隅城の攻略である。その益田氏だが、今や大内家への義理もなくなったので、益田氏は三隅城に迫っていた吉川元春に和議を申し込んでいた。吉見正頼の台頭を恐れていた元就は、益田氏をそのまま生かして吉見氏に対抗させようと考えたのか、さっそく元春に策を命じ、福屋隆兼を通じて和談交渉をさせた。元就は歴代吉見氏と益田氏とが敵対関係にあることを知っていたので、このたびの吉見氏の功績を考えると、本来ならば益田氏を許すべきではない。そこでこの矛盾を両立させるため、元春を交渉の表に出さず、あくまで福屋氏自身の計らいと見せ掛け、和談成立の場合は元就は関知しなかったことにして、元春を叱責しつつ致し方なく降伏を認める、という段取りを経ることにした。その交渉を進めつつ、その間にも永安城・春日尾城を落とし、遂に益田氏は元就に降伏した。吉見氏の不満は蔽うべくもなかったが、元就としては長府且山城の攻略を急ぐあまり、益田氏を味方に引き入れる有利さが一層大きかった筈である。こうして防府・長門・石見における旧大内領は殆どが元就の掌握するところとなり、石見に残る敵は川本温湯城の小笠原長雄のみとなった。(益田市誌・邑智町誌参照)

  

 

大友、筑前を平定 

 

豊前・筑前では、毛利元就の防府・長門侵攻に機を合わせて、大友宗麟に反感を持つ武将たちが反乱を起こした。まずは筑前古処山城の秋月文種が挙兵し、豊前の馬岳を攻めて城督神代弘綱を降した。次いでこれに呼応する形で、豊前下毛郡の山田隆朝も築城郡の城井左馬助の宅所に押し寄せ、付近の一帯を焼き払って退却した。このようにして毛利方の勢力が北九州に広がりつつあったのだが、そんな情勢とはうらはらに毛利元就と大友宗麟の間に、ある密約が結ばれつつあった。その密約とは、元就の防府・長門支配を宗麟が認めるならば、元就も宗麟の豊前・筑前の支配を黙認する、というものである。この密約によって宗麟から見殺しにされた大内義長(宗麟の弟)や、毛利氏に内通しても支援のあてのない秋月氏らが抜き差しならぬ泥沼の中にのめり込むことになった。密約が成立した後の宗麟の反撃は早かった。5月、宗麟は国東郡の田原氏に豊前への出陣を命じ、また重臣の戸次鑑連に日田・玖珠郡衆と筑後衆を付けて筑前へ出張させた。6月には山田隆朝が居城の山田城を落とされて一類山中に姿を消した。秋月氏が占領した馬岳も攻められ、城番が討ち取られた。筑前へ向かった戸次氏は古処山城を落として秋月氏を殺し、同じく秋月氏と共に反乱を起こした五箇山城の筑紫広門を降伏させて、瞬く間に筑前を平定した。かくして宗麟は元就との密約を以って豊前を取り戻し、かつ新たに筑前を手に入れたのである。(大分県史参照)   

 

 

長慶、丹波多紀郡を支配 

 

畿内において三好長慶の権力になびかぬ地方豪族は、今や多紀郡八上城の波多野晴通と氷上郡黒井城の赤井直正だけになっていた。この二人が有る限り長慶は枕を高くして眠れなかった。なぜなら細川晴元が丹波を拠点として、どのような策謀をめぐらすか気が気でなかったからである。そこでこの年、長慶は松永久秀に八上城への総攻撃を命じた。結果は10月に城が落ちたと古文書に記されている。度重なる三好軍の攻撃によって、波多野氏以下城兵らは疲弊し戦力が著しく弱体化したため、最後まで抵抗して損失を大きくするよりも、ひとまず八上城を捨てて捲土重来を期そうとしたのではないかと思われる。一説には「久秀の空き巣狙い」と呼ばれている説がある。これは毛利氏と波多野氏とは縁戚関係だったので、波多野氏が毛利氏に義理立てするために中国へ援軍に馳せつけた、その隙を突いて空城同然となった八上城を久秀が掠め取ったというものである。いずれにせよ、この段階で多紀郡が長慶の支配下に入り、丹波に残る敵は氷上郡の赤井一族のみとなった。(丹波戦国史参照)

 

 

信長、弟信行を殺害 

 

昨年、織田信行は兄の信長に対して打倒の兵を挙げたが、降伏後に母の執り成しで赦免されていた。しかし信行は野望捨て難く、その後も東尾張を信長の手から奪い取ろうと再び謀反を計画し、岩倉城主織田信安と謀って秘かに駿河の今川義元とも通じた。信行の臣柴田勝家はこれを諌めたが、かえって疎んじられたので信行を恨み、清州に行ってその企みを信長に密告した。それを知った信長は11月、病気と偽って信行を清州に招き、これを殺した。(清州町史参照)

 

 

第三次川中島の合戦 信玄、信濃北部を掌握 

 

武田信玄は、上杉謙信が動けない深雪の時期を選んで北信に兵を送り、越後方の前線要害ともいうべき葛山城を急襲した。三度目の北信進撃であった。葛山城は激戦の末、同城に籠もっていた落合氏を討ち取り落城させた。すると長沼城にいたとみられる島津忠直が恐れをなして北の大倉城に逃げ込んだ。更に高梨政頼家臣の山田・木島・市川氏らも武田方に降伏してきた。このような形勢を見ていた高梨氏は、このままでは居城の飯山城も危ないと見て謙信に出馬を要請した。謙信は無勢のまま深雪を侵して出陣し、武田方が押さえていた山田要害・福島城を取り返しながら旭山城まで進み、ここに本陣を置いた。その後、謙信は香坂・坂木へと攻め込んだが、武田方は戦闘を避けて退くばかりであった。やむなく謙信も撤退を開始し、その帰途、武田方に寝返った市川氏を攻めるため、野沢温泉に兵を進めて上野原で武田方と戦った。しかしそれも勝敗を付けることなく、間もなく越後に帰った。「第三次川中島の合戦」。同じころ武田の別働隊が糸魚川沿いに進撃して小谷城を攻略し、謙信の春日山城を狙う態勢が整うほどの成果を揚げていた。したがってこのたびの戦いは信玄方の勝利となり、結果的に飯山城の除く信濃北部が信玄の支配下となった。(長野市誌・更埴市史参照)

 

 

 

1558 永禄元年

長慶、将軍義輝と和睦し幕府を再開 

 

6月、朽木に逃亡していた将軍足利義輝が、近江守護六角義賢の援助を得て京都回復に乗り出し、洛東如意岳に陣を構えた。対する三好長慶は松永久秀を洛南吉祥院に向かわせ、ここで義輝方との壮烈な銃撃戦が繰り広げられた。三好軍は三万を超す兵力を持っていたが、それでも数千人で支える義輝の中尾城を攻略できず、なおも義輝方は六角軍の後詰を得て、屈指の要害と称された北白川の勝軍地蔵山を占拠した。こうして両軍の膠着状態が続く中、六角氏の仲介で長慶と義輝の間の和議が進められ、11月に和睦して義輝が入洛することとなった。実に天文22年(1553)以来五年ぶりの幕府再開である。義輝と和睦して一応の協調関係に入った長慶は、将軍義輝・細川氏綱を戴きながら実質的な畿内の支配者となったのである。しかし長慶にとってこの和睦はどれほどの意味を持っていただろうか。むろん義輝と結ぶことによってその支配の正当性を獲得し、今後の畿内掃討戦を有利に進めることができるという利点はあったが、これまで長慶自身が行なってきた裁許状の発給業務が義輝に移ったのである。長慶にしてみればみすみす将軍権力の復活を許してしまったことになるのだが、このあたりが、なお幕府を排除しきれない、長慶の支配者としての限界を示すものであろう。視点を変えれば、長慶はなお将軍=守護という伝統的な支配秩序が正統であるという意識に束縛されていたのである。(大阪府史・小野市史参照)   

 

 

三好義賢、讃岐を平定 

 

讃岐では天霧城の香川景則のみが三好義賢への服属を拒否していた。彼は伊予の河野氏と親しくしており、河野氏と共に毛利元就に従おうとしていたのである。これを許さぬ義賢は香川氏を討伐するために軍を発した。8月、義賢は阿波・淡路の兵八千を率いて讃岐引田浦に至り、当浦で引田城の寒川政国・虎丸城の安富盛方らを加えて弟十河一存が拠る十河城に入った。このとき義賢の許へ馳せ参じたのは、財田城の財田和泉守・羽床城の羽床伊豆守・藤尾城の香西元政らであった。その数一万八千に及び、那珂郡以東の武将はほとんど義賢に従った。同月、義賢は多度郡に入り、香川氏が籠城する天霧城を包囲した。城兵は徹底抗戦の構えを見せ、なかなか落ちる気配がなかった。そこで義賢は和平の道を選び、香西氏にその任に当たらせた。香西氏は「降伏すれば義賢に従わなかったことを罪に問わない」との言質を取って交渉に臨んだ。結果、香川氏はこれを受諾して義賢に降伏した。ここに讃岐全土が三好氏によって平定されたのである。(香川県史・善通寺市史参照) 

 

 

謙信、関東出陣 上野・下野諸氏参集 佐竹、小田領奪回 

 

上杉謙信が関東に侵入した。弘治2年(1556)以来の二度目の出陣であり、いずれも地元の武将たちの強い要請に応えたものである。上野では、白井城の長尾憲景・箕輪城の長野業政・和田城の和田業繁・倉賀野城の倉賀野直行らが、秘かに反北条の旗印を掲げて謙信の出馬を待っていた。また常陸では、太田城の佐竹義昭・小田城の小田氏治らが北条方を攻撃すべく準備を進めていた。また当時、鎌倉に幽閉されていた足利晴氏も自らの古河公方復帰を願って謙信の出陣を促していた。これらの要請に応える形で謙信は関東に侵入したのである。その進撃ぶりは鬼神のごとく迅速にして猛烈であった。まずは上野金山城の由良成繁・桐生城の佐野豊綱ら北条幕下の諸城を降し、更に下野に入って祇園城の小山高朝・鹿沼・壬生両城の壬生綱雄らに兵威を示した。これに呼応して、佐竹氏が北条方の結城晴朝に占領されていた海老島・大島を奪回し、また下妻城の多賀谷政経を自陣に引き入れて小田氏の旧領を回復させた。上野でもまた、長野氏が北条方小幡信貞への居城国峰城を巡る暗躍を開始した。このように謙信の出馬は反北条を掲げる武将たちに多大な勇気を与え、関東各地に潜む不満分子を一斉に呼び起こした。その大旋風が巻き起こるのは二年後のことである。(下館市史・上越市史参照)

 

 

 

1559 永禄2年

信長 尾張を統一 

 

当時の尾張は、織田信長が守護所の清州城を占領してその大方を支配下に置いていたが、尾張上郡の守護代である岩倉城主織田信安が美濃の斎藤義龍と結託して信長に敵対していたため、未だ尾張の統一が実現していなかった。やがて駿河の今川義元が大軍を率いて攻めてくると睨んでいただけに、信長は一刻も早く統一せねばと焦りを感じていた。そんな折の永禄元年(1558)、岩倉織田家にお家騒動が起こり、岩倉討伐のチャンスがやってきた。お家騒動とは城主の信安が子の信賢に追放されるという事件である。信長はその混乱に乗じ、犬山城の織田信清を味方に付けて戦いを挑んだのである。当時、信清は守護代方の配下にあったが、彼は信長の姉(犬山殿)を娶っていたし、勝利の暁には尾張上郡を任せるという密約があったので、信長に与したとされている。岩倉討伐については「信長公記」によれば、信長勢二千と信清勢千の連合軍が浮野で岩倉勢三千を破り、翌永禄2年2月に岩倉城を落として信賢を降伏させたという「浮野の戦い」。ここに上郡が制圧され、尾張が信長によって統一されたのである。尚、この形勢が一段落したのを機に、信長は俄かに八十人のお伴衆を引き連れ上洛し、将軍足利義輝に尾張守護を賜って名実共に尾張の支配者となった。(清州町史・名古屋市史参照) 

 

 

毛利、小笠原領(尼子方)を占領 尼子、大森銀山を奪取 

 

毛利元就は石見に残る尼子勢力、小笠原長雄の討伐に着手した。2月、元就の命を受けた吉川元春は安芸・備後・石見の諸氏を従えて石見に入り、上出羽二ツ山城に陣を敷いた。このとき尼子晴久は、家臣の本城経光を小笠原支援のために下出羽別当城周辺に布陣させていたが、元春はその裏をかいで本城氏の兵站戦を分断する作戦に出、阿須那から布施にかけて攻撃した。すると本城氏は孤立を恐れて総退却したため、小笠原氏の穀倉村之郷一帯が毛利勢の占領するところとなった。間もなく元就ら毛利本隊軍が石見に入って元春と合流し、ここから小笠原氏が籠もる温湯城の本格的な攻撃へと移っていった。一方、晴久は窮迫する小笠原勢を救援するため、7月、自ら大挙して石見に入り、忍原に毛利勢を破って君原から高倉山に進出した。だが折からの洪水で渡河できず、反転して那賀郡松山城を攻め、渡河地点を求めようとするも、毛利勢に阻まれて敗れ、やむなく温泉津を経て大田に退いた。救援の絶望を知った小笠原氏は遂に小早川隆景を介して降伏を懇請、元就は吉川・小早川氏の誅滅論を却けてこれを赦免し、温湯城および小笠原領を支配下に置いた。一方、大田に退いて陣容を立て直した晴久は、元就が温湯城にかかずらっている隙を突いて山吹城を攻略し、大森銀山を再び尼子方の手に戻した。このとき山吹城の将高畠遠言・刺賀長信らは城兵に代わって自害を乞うたので、晴久は二将を温泉津へ送って海蔵院で最期を遂げさせたという。(邑智町誌・続邑智郡誌・益田市誌参照) 

 

 

飛騨が上杉方と武田方に分裂 

 

当時、飛騨一円は三木良頼の勢力下にあった。しかしそれは必ずしも安定した三木領国といえるようなものではなく、江馬・姉小路・広瀬・内ヶ島・塩屋氏などが、いつなんどき彼らとの関係が崩れるかわからないような、いわば同盟関係程度の脆弱なものであった。そのため三木氏は上杉謙信に誼を通じ、謙信の傘の下で飛騨に強固な基盤を築き上げようとした。謙信にとっても、上洛への道を加賀本願寺によって阻まれていたので、飛騨路の安全が確保されることは願ってもないことであった。こうして両者間に同盟が結ばれて三木氏が謙信の傘下に入ったのだが、飛騨の地はこのころ新たに武田信玄の勢力が入り込みつつあった。信玄が飛騨に目を付けたのは、加賀本願寺との連絡通路を確保するためである。信玄はこれまで、謙信に敵対する加賀本願寺を陰に陽に支援していたため、飛騨が戦略上の重要な意味を持つようになっていたのである。おそらく信玄に圧力をかけられた江馬氏は抵抗しきれなかったのであろう。江馬時盛は信玄に通じて三木氏から離反した。但しその実情は複雑で、親上杉方と親武田方に内部分裂起こした上での離反であった。その複雑さを抱えたまま、飛騨の地もまた戦国時代を迎えた。(飛騨下呂通史・宮村史参照) 

 

 

謙信、将軍義輝に謁見 

 

上杉謙信が二度目の上洛を果たして将軍足利義輝に謁見し、また正親町天皇からも杯を授けられた。謁見の目的は、謙信が上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲り受けることについての内諾を得るためであった。その目的が果たされ、謙信は将軍家一族や三管領に準ずる待遇を得たほか、関東で憲政の身が立つよう援助することを将軍より命ぜられた。また武田信玄との抗争についても「信濃国諸侍」に命令を下すことを許すとの御内書を得ている。こうして謙信は、憲政を奉じて関東へ出馬することや、信玄に逐われた諸氏を援護して信するために濃へ出馬することなどの、正当性を主張することが可能となったのである。(山梨県史・藤岡市史参照)

 

 

 

1560 永禄3年

信長、桶狭間で今川軍を撃退 

 

今川義元は二万五千の軍勢を率いて西上の途についた。武田・北条と三国同盟を結び、背後を固めた上での進軍であった。目指す目的は尾張の平定である。5月18日には沓掛に到達し、織田信長との対決が目前に迫った。一方、信長は清洲城において義元の沓掛着および翌日の丸根・鷲津両砦への進撃の情報を受けた。このとき織田の重臣たちは籠城策を進言したが、信長は「必ず国の境を踏み越え合戦すべし」と籠城策を一顧だにしなかった。5月19日、遂に今川軍は信長の喉元に到達し、丸根砦・鷲津砦の両城を陥れた。緒戦は今川軍の圧倒的勝利に終わった。ちなみに、このとき丸根砦攻めを指揮したのが松平元康(後の徳川家康)である。先勝に酔う義元はゆっくりと先へ進んだ。やがて桶狭間に着いたとき義元は全軍に休憩を命じた。ここは丘陵の山あいの窪地だ。この情報を得た信長は全軍に出陣を命令、「念珠を肩にかけろ」と決死の覚悟を求め、一路桶狭間へと進んでいった。義元の本陣を見つけた信長は、このとき集まってきた三千の兵に総攻撃の命を下した。太子ヶ根山を下り、大音声とともに今川軍に雪崩込んだ。完全に不意を突かれた今川勢は、味方の喧嘩との区別もつかぬまま信長勢の穂先を揃えた歩兵の槍に押しまくられた。「旗本は是れなり、是れへ懸かれ」という信長の指示が伝えられ、全軍が義元の首に向かって突風のように襲いかかった。そして服部小太郎の刃が義元の首を押し切った。義元の敗死を知った今川勢は算を乱して尾張から逃走、信長はみごとに東からの脅威を粉砕したのである「桶狭間の戦い」。(歴史群像シリーズ①織田信長参照) 

 

 

長慶、河内を直轄領に収める 

 

京都を将軍足利義輝に明け渡した三好長慶は、ある経緯によって一転河内に軍隊を集中し、河内の直轄領国化に専念することになった。その経緯とは去る天文20年(1551)、河内守護代の遊佐長教(長慶の岳父)が反三好方との争いから刺客の手に暗殺されたことに始まる。遊佐氏の跡を継いだのは新守護代の安見氏である。その安見氏は永禄元年(1558)、国主畠山高政を高屋城から追い出して河内の実権を握った。追い出された高政は紀伊に逼塞したが、やがて高政は長慶の援助を得て、永禄2年(1559)に再び高屋城に復帰した。このとき長慶は安見氏を追放し、代わりに紀伊の湯河氏を守護代に就けた。こうして河内は再び平和を取り戻したのだが、実はここから事態が急転回する。河内国人衆は他国者の湯河氏を守護代に就けたことに強く反発したので、やむなく高政は安見氏と和睦し、永禄3年(1560)に安見氏を飯盛城に入れて守護代を再任させた。ところがそれば長慶の了解なしに行なわれたため怒りを買い、このことが長慶の河内占領の名分を得た長慶jは7月、大挙して河内に侵攻し、10月には高屋城・飯盛城を落として高政・安見氏を堺に逐った。そして11月、長慶は本拠を芥川城から飯盛城に移し、高屋城には弟の三好義賢を入れて河内一国を支配させた。こうして河内は長慶の直轄領となり、飯盛城が織田信長入京までの約八年間、畿内政治の中心地となった。(大阪府史・富田林市史参照)

 

 

長慶、大和を直轄領に収める 

 

三好長慶は河内のみならず大和をも直轄化しようと、代官の松永久秀を大和に送り込んで国境の信貴山に築城させていた。その久秀が本格的な大和侵攻を開始したのは、この永禄3年(1560)、長慶が畠山高政の討伐に向かう折に大和占領を命ぜられてからのことである。7月、久秀は信貴山城から奈良に進撃し、井戸城・檜牧城・万歳城など奈良盆地の諸城を攻略して筒井氏・十市氏らを駆逐した。そして翌永禄4年(1561)には多聞山に城を築いて大和制圧を宣言した。こうして鎌倉以来の興福寺による大和支配は四百年にして幕を閉じることになり、代わって三好氏が直轄管理する国となったのである。ここにおいて長慶は山城・大和・摂津・河内・和泉の畿内五カ国に加え、丹波と播磨東部、更に讃岐・阿波・淡路を押さえる大大名となった。(奈良県史・藤井寺市史・小野市史参照) 

 

 

長宗我部、本山氏と対戦 高知平野を掌握 

 

長宗我部国親(元親の父)は、ある事件が発端となって本山茂辰と敵対関係に陥った。その事件とは、国親が大津から種崎へ兵糧を運搬しようとしたところ、本山氏の支城である潮江の城兵がその兵糧を奪ったことにある。国親はこれを許さず、その報復として本山氏の属城長浜城を奪い取った。対する本山氏もすぐさま朝倉城から長浜表へ討って出たが、国親の奮戦すさまじく、結果は「長浜・戸ノ本の戦い」で国親が勝利した。敗れた本山氏は遁れて浦戸城に入ったので、国親はこれを追って同城を包囲したが、しかしなぜか国親は急に囲みを解いて帰陣した。すると本山氏もまた浦戸城を捨てて朝倉城に引き揚げた。図らずもその翌月、国親が病没した。主なき長宗我部家は混乱状態に陥ったが、跡を継いだ元親が父の意思を受け継いで本山氏への攻撃を展開、潮江を焼き、国沢城・大高坂城・秦泉寺城・久万城・福井城を降して高知平野全域を手中にした。元親は幼少時「姫若子」といわれ、「うつけ者」とののしられていたが、その彼が目覚しい奮戦を遂げて大戦果をあげたのである。家臣一同は青年武将の驍勇に驚喜し、「智謀勇気兼備して  尤も大将の才なり」とたたえ、信頼を寄せ、これ以後「土佐の出来人」と仰がれるようになった。(高知県史参照) 

 

 

長宗我部氏のこれまで 

 

長宗我部氏はここに至るまでに一度没落している。それは約五十年前の永正5年(1508)のこと、このとき岡豊城にいた長宗我部兼序が本山・山田・吉良・大平氏ら周辺諸氏に襲撃を受けて死んだ。原因は兼序が細川氏の勢威をかって人を人とも思わぬ振舞いをするので、それを本山氏らが憎んで討伐したものであったという。これまで細川氏と深く結びつくことで力を振るってきた兼序は、細川政元が死んで土佐の細川支配が終焉すると、兼序もまたその支持基盤を失い、国人たちから襲撃を受ける結果となったのである。この戦いによって長宗我部氏は没落したが、譜代家臣たちはなお、お家再興の望みを託して一子千雄丸(後の国親)を一条房家の許に送った。一条氏は兼序の死を悲しみ、千雄丸を膝下に置いて養育した。その十年後、一条氏は本山氏らに対して仲介の労を取り、国親を岡豊城に復帰させた。やがて国親は優れた武将に成長し、天文15年(1546)には飛躍の基礎となる業績を生み出した。それは香美郡南部を支配する香宗我部氏に国親の三男親泰を養子に入れて連合体を形成したことである。これ以後、関を切ったように破竹の快進撃を展開し、翌年には十市城・池城・改田城を降して一挙に長岡郡南部を掌握した。更にその二年後には山田氏の失政につけ込んで彼の本拠である楠目城を落とし、香美郡を支配下に収めた。そもそも山田氏は国親の父兼序を殺した張本人である。国親はその恨みを晴らしたのである。恨みを晴らすべき相手はもう一人いる。それは土佐・吾川郡を支配する本山茂辰である。彼を次の仇討ちの相手と狙っていたところ、そのチャンスがこの年(永禄3年)にやってきた。それが前述の「長浜・戸ノ本の戦い」である。(土佐市史・南国市史参照)  

 

 

謙信、関東に出陣 反北条勢力を結集 

 

9月、上杉謙信が再び関東へ出陣した。この出陣は常陸の佐竹氏・安房の里見氏・上野の長野氏や長尾氏の要請を受け入れる形で行われた。目的は上杉憲政が失った関東管領職の権威を確立するとともに、上杉氏の領国でもあった上野・武蔵などの失地を回復することである。また武田信玄と同盟を結んでいる北条氏康を叩いて、信玄の上野進出を阻止する狙いもあった。謙信は三国峠から猿ケ京城に入り、ここを拠点に沼田城の攻撃を開始、城主以下数百名を討ち取って同城を落城させた。次いで岩下城・明間城も攻め取り、利根・吾妻・碓氷など上野西北部を占領した。このとき謙信と同族である長尾一族の白井長尾憲景・総社長尾顕景・足利長尾景長らが謙信の陣所に来て服属した。また西上野最大の勢力となっていた箕輪・厩橋城の長野業政や、その傘下にある和田城の和田業繁・倉賀野城の倉賀野直行らも謙信の陣下に加わった。彼らを引き連れ、大勢力となった上杉勢は更に南下し、赤石城の那波顕宗や館林城の赤井照康らを攻めて降参させた。武蔵でも岩付城の太田資正・忍城の成田長泰・深谷城の上杉憲盛らが謙信に応じ、大里・秩父地方を支配する藤田氏や、多摩・入間郡に散在する三田一族、およびその同盟者たちもまた謙信の陣営に加わった。武蔵の諸氏は、早くも武蔵南部から相模にかけて進攻し、成田氏は鎌倉付近へ、太田氏は江戸城近辺や北条方経済水圏の拠点である葛西城へ攻め込んだ。このとき葛西城は里見水軍の協力もあって太田氏に攻め落とされている。12月、謙信は厩橋城に入城し、ここで未着の諸将に参陣を促した。その結果、上野・下野・武蔵・常陸・安房・上総・下総の七か国、二百二十五名を上回る反北条諸将が謙信に合力する旨の名乗りを挙げた。翌年早々、謙信はこの大軍団を率いて南下する。(群馬県の歴史・東京都の歴史・新修埼玉県史参照)                                                                          .                                            

 

 

里見、上総・下総に侵攻 

 

上杉謙信の関東出陣を最も熱烈に要請していたのは房総の里見義堯であった。昨年来、里見氏は本拠久留里城を北条勢に包囲され、まさに存亡の危機に瀕していた.のである。案の定、謙信の上野侵入によって北条勢は久留里城から撤退、里見氏にとってまさに九死に一生を得た瞬間であった。これを境に房総における里見氏の勢力関係が一変した。まずはそれまで北条氏康に従属していた金谷城の正木弥五郎が里見氏に帰参、これに力を得た里見氏は、内房側から一気に北上して下総千葉胤富の領域に侵攻していった。このとき東金城の酒井胤敏・小金城の高城胤吉・匝瑳郡に在所していた山室治部少輔らが里見方に属して進軍している。葛西城を太田資正らと共同して攻略したのはこのときのことである。里見氏は外房側にも兵を割き、宿老の正木時茂に下総に向けて進軍させた。正木氏は常陸川を遡行して香取郡に上陸し、小見川を拠点に香取郡東部から海上郡にわたる一帯を占領した。このころには長南城の武田豊信も里見氏に従うようになっており、長南城を含めて池和田城・勝見城・茂原郷・古沢城・万喜城などの武田氏の支配領域が、一気に里見氏の支配下に入った。(千葉県の歴史・勝浦市史参照)  

 

 

佐竹、寺山以南の南郷を領有 

 

3月、白川晴綱が芦名盛氏の援軍と共に那須領に攻め入り、阿武隈川支流谷津川に接した小田倉原で那須勢と衝突した。このとき那須資胤は佐竹義昭に援軍を求めた。これを受けた佐竹氏は白川氏の背後を突こうと、佐竹氏一族が地頭職を務めていた久慈川上流一帯を経て南郷に出兵し、8月には寺山城を包囲した。白川氏は那須氏との戦闘が長期化すれば領境がますます不安定になると見て、古河公方足利義氏に調停を依頼した。義氏は那須氏や佐竹氏に戦闘の中止や講和を命じたが、佐竹氏の姿勢が固くてこれに応ぜず、10月、遂に寺山城が佐竹氏の手に落ちた。このころになってようやく白川氏との調停が成立し、寺山以南の南郷が佐竹氏に割譲されることとなった。(常陸太田市史参照)

 

 

 

1561 永禄4年

謙信、関東を席巻 小田原城を包囲

 

1月早々から厩橋城で越年した上杉謙信の許に続々との諸将が参集してきた。忍城の成田長泰・羽生城の木戸忠朝・深谷城の上杉憲盛・岩付城の太田資正・勝沼城の三田綱秀・祇園城の小山秀綱ら十万とも言われるオール関東の兵が集まったのである。2月、謙信は小田原城攻撃の命令を発し、厩橋城を出て一路南下した。まずは松山城に入り、柚木を通って3月には相模当麻に着陣した。そして相模川を渡って同国中郡に入り、3月下旬には酒匂付近に到達した。かつての上杉幕下にあった諸将の大部分が謙信方に馳せ参じ、北条方に就いていた諸将も謙信方になびき、あるいは俄かに中立を宣言する者も少なくなかった。その状況を見た北条氏康は正面から受けて立つ野戦の不可能を悟った。まして同盟を結んでいた今川義元は尾張の桶狭間で織田信長に討たれ、同じく同盟関係にある武田信玄は、信濃の善光寺平・碓氷峠などに兵を出して謙信を側面から牽制してくれてはいるが、援軍として送ってきたのは僅かに三百人ほどにすぎなかった。これでは相対の合戦は不可能だ。氏康は籠城を決意して武器・弾薬・食糧・衣服その他をできるだけ多く城中に蓄えた。一方、小田原城を包囲した上杉連合軍は城下の蓮池付近まで侵入し、籠城する北条軍との間で激しい攻防戦を繰り広げた。小田原城は早雲以来の北条氏が誇る堅城である。謙信の勇猛とその大兵をもってしても抜くことができなかった。それでも謙信は一ヶ月ばかり平然として包囲攻撃を続けたものの、戦況は変わらなかった。このまま包囲戦を続けると北条方に寝返る者が出てくるかもしれなかった。また武田軍が川中島へ進出したとの報が入ったこともあって、遂に閏3月、謙信は酒匂の陣を撤収し、鎌倉へ向けて退去した。(歴史群像シリーズ⑧上杉謙信・小田原市史・新編埼玉県史・上越市史参照)

 

 

謙信、関東管領に就任 藤氏を公方に奉戴 

 

小田原から退去して鎌倉に入った上杉謙信は、鶴岡八幡宮に拝賀して、名を長尾景虎から上杉政虎と改名(本誌では上杉謙信で統一)した。ここで上杉憲政から正式に関東管領職と家督を譲られ謙信は、足利晴氏の嫡子藤氏を公方に擁立し、また前管領憲政および前年京都から越後に下っていた関白近衛前嗣を共に古河に置くことにした。それは北条氏康が推す公方義氏に対抗して、謙信方の公方藤氏の権威を高めるために採った処置である。謙信は越後への帰途古河城に立ち寄り、さっそくこれを実行した。そのため足利義氏は上杉方の攻撃を受けて居城の関宿城を追われ、下総小金に居所を移した。かくして北条・上杉両氏は義氏と藤氏という別個の公方を擁立し、二人の管領と二人の公方が関東支配をめぐる激しい抗争を繰り広げることになった。(新編埼玉県史・小田原市史参照) 

 

 

第四次川中島の合戦 信玄、信濃北部を占領 

 

6月、関東の仕置きを終えた上杉謙信は急ぎ越後へ帰国した。武田勢が川中島へ進出してきたからである。武田信玄は同盟者北条氏康の依頼により、謙信の動向を牽制するために川中島に兵を入れたのである。このころまでには武田勢は海津城に城を築いて前線基地を固め、更に水内郡鰐ケ岳城を陥れて越後侵入の手筈を整えるなど、春日山留守城将に威圧を加えるまでになっていた。8月、越後に帰った謙信は一万三千の兵を率いて春日山城を進発し、海津城の南に位置する妻女山に陣取って武田勢の退路を塞ぐ態勢をとった。武田勢は謙信のその動静を随時甲府の信玄の許に報じていた。謙信来たるの報を受けた信玄は、すぐさま川中島に向けて発進し、海津城に入った。しばらくは両軍の睨み合いが続いたが、その静寂の中で最初に動き出したのは信玄である。信玄は参謀山本勘助の進言を採用し、総勢二万の内一万二千の兵を妻女山に向かわせた。妻女山から逃げ下る上杉軍を残留の武田勢八千が待ちうけ挟撃する作戦だ。ところが謙信は、海津城に炊事の煙の多く立ちのぼるのを見て信玄の経略を見破った。謙信は全軍に指令を出して夜のうちに秘かに山を下り、武田本陣の間近に陣を取って待ち構えた。日が出て霧が晴れると謙信の陣容が姿を現し、目前に武田勢の慌てふためく姿を映し出した。間髪を入れず謙信は突撃の合図とともに武田本陣めがけて一斉に襲い掛かった。武田勢は圧倒的に不利な状況の中、信玄の弟信繁はじめ参謀の勘助など主だった武将が多数戦死して、武田方の敗色が濃厚となった。とそのとき妻女山に攻め寄せていた武田の主力部隊が鉄砲や鬨の声を聞いて我先にと本陣に引き返し、上杉勢に攻めかかった。さすがの謙信も敵に挟撃されては勝ち目なしと見て全軍越後に引き揚げた。あわや武田勢は全滅を免れたのである。結果、信玄が海津城をはじめとする城砦をひとつも失うことなく上杉勢を追い払い、信濃における上杉方の拠点、飯山城・市川城・野尻城などの上杉方の諸勢力を北部に封じ込めたという点で、信玄が勝利したと言ってよいだろう「第四次川中島の合戦」。(更埴市史・長野市誌参照) 

 

 

信玄、上野に侵入 

 

川中島で勝利した武田信玄は11月、今度は北条氏康を支援するために上野への進出を開始した。そのコースは二つあった。一つは上田から鳥居峠を越えて吾妻郡に至る道、もう一つは小諸から碓氷峠を越え、碓氷郡を経て上野中央部に達する道である。信玄は真田幸隆に吾妻郡への侵入を命じ、自らは本隊軍を率いて碓氷郡へ向かった。吾妻方面では真田氏の調略によって鎌原城の鎌原宮内少輔・大戸城の浦野中務少輔らが武田方に降ったが、羽尾城の羽尾修理亮・岩下城の斉藤越前守らは上杉方に就いて真田氏に対抗した。碓氷峠から入った信玄は、高田城・国峰城などの諸城を攻略して甘楽谷を平定した。その後も進軍を続け、箕輪城・和田城・倉賀野城などの長野業政の支配圏である上野中央部を目指して北進した。まずは倉賀野城を攻めたが、城主の倉賀野直行がよくこれを防いだので落とすことはできなかった。しかし和田城の和田業繁を謀略を用いて降伏させたので、箕輪城・倉賀野城との連携を絶つことに成功した。以後、その包囲を狭めつつ翌年を迎える。(群馬県の歴史・新編高崎市史・前橋市史参照) 

 

 

長慶、反三好勢力に挟撃される 

 

三好長慶が戦国大名化へ向かって地歩を固めつつあったとき、容易ならぬ事態が出来した。三好氏のために辛酸をなめてきた旧勢力が大同団結し、一丸となって長慶に反撃してきたのである。東からは細川晴元を擁立する近江守護六角義賢が勝軍地蔵山に進駐して洛中を窺い、西からは長慶に追われて紀伊に逼塞していた畠山高政が湯河直光・根来宗徒らと共に、長慶の本拠飯盛城・高屋城に向け進軍を開始した。これに対して長慶は、嫡子の義興と松永久秀を京都に送って西院城で六角軍と対峙させ、また阿波・讃岐の兵を岸和田城に差し向けて畠山軍の進軍阻止を図った。まずは岸和田城で激戦が展開されたが、ここで不運にも同城を守っていた長慶の弟十河一存が銃弾に倒れ、三好勢が窮地に陥った。畠山勢には鉄砲を装備する根来寺の精鋭が参加していたのである。東西両面から包囲されて身動きができなくなった長慶は、存亡の危機に直面したまま翌年を迎える。(大阪府史・藤井寺市史・香川県史参照)(大阪府史・藤井寺市史・香川県史参照)

 

 

毛利、備中を平定 

 

毛利元就は小早川隆景に備中出陣を命じ、庄氏の本拠松山城を攻撃させた。遡ること天文22年(1553)、庄高資は三村家親と和睦して毛利傘下に入ったが、その後、再び尼子方に復帰して尼子の加番と共に松山城に入っていた。ところがその加番が高資に何かと干渉圧迫を加えてきたため、高資は堪え切れなくなって尼子と手を切り、松山城を捨てて庄元祐(三村家親の嫡男)の居城猿掛城に逃げ込んだ。かく経緯の末に、高資は三村氏を通じて元就に松山城の奪回を請い、このたびの隆景出陣となったのである。松山城は毛利の大軍の前に衆寡敵せず、討死する者、落ち延びる者が続出し、尼子の加番も奮戦の甲斐なく追い詰められて討死、城は隆景によって接収され、三村氏に与えられた。以後、三村氏は元就から備中の支配を委ねられ、猿掛城に長子、鶴首城に甥、国吉城に次弟、杠葉城に三男、荒平山城に四弟、美袋山城に五弟、竹城に五男、角尾城に六男を養子に入れ、更に備前の常山城に長女、幸山城に次女、美作の月田城に三女を入れて備中全土を支配下に収めた。(高梁市史・北房町史・山手村史参照)

 

 

毛利、豊前西部を制圧 


防府・長門・石見の制圧をほぼ終えた毛利元就は、大友宗麟に占領された北九州の奪回に取り掛かった。それは宗麟に反感を持つ北九州諸氏の要請に応じたものである。さっそく元就に命ぜられた小早川隆景は九州に上陸し、2月、大友方の奴留湯主水が城番を勤めていた門司城を攻略した。当然ながらこのことは宗麟を激怒させ、9月、宗麟は大軍を以って門司城を包囲し総攻撃をかけた。宗麟としても毛利の勢力が大きくならないうちに門司城を奪い返したかったのである。対する隆景は門司城の守りを堅くするだけでなく、乃美氏・村上氏らの瀬戸内水軍の主力を派遣して同城の海域を守らせた。これが勝敗を決める分け目となった。宗麟も水軍を持っていたが、当時の日本で最強を誇った瀬戸内水軍には敵し難く、そのため海に面する門司城を一挙に攻撃できなかった。一方、毛利方水軍は豊前の海岸線に攻撃をかけて大友軍の補給・連絡路を脅かした。10月、蓑島で大友水軍と瀬戸内水軍が遭遇し、大友水軍が壊滅的な敗北を喫した。それによって豊前北部の海岸地域は毛利勢の攻勢に晒され、門司ケ浜から大裏・赤佐古・貫を通って京都郡・仲津郡まで後退する大友勢を、毛利方は水陸から攻撃して大戦果を挙げた。11月、寒風吹きすさぶ中を、大友勢は門司から退却し日田まで撤退した。その結果、宇佐郡・下毛郡を除く豊前はほぼ元就の制圧するところとなった。(北九州市史・大分市史参照) 

 

 

松平元康、今川氏から独立 信長、高橋荘を占領 

 

今川義元の人質となっていた松平元康(後の家康)は、義元が桶狭間の戦いで信長に殺されたのを機に岡崎城に帰り、今川氏からの自立を図った。自立のために為すべきことは二つある。一つは織田信長と同盟を結ぶこと。もう一つは今川氏に家臣化している三河の国人衆を松平方に復帰させることである。信長との同盟は伯父の水野信元を通して模索された。尾張・三河両国にまたがって所領を持っていた水野氏にとって、所領保全のためにも両者の同盟は歓迎すべきことであった。織田・松平同盟に目途を立てた元康は今川氏と手を切り、国人衆を松平方に復帰させるべく今川勢力との戦いを始めた。3月には板倉重定を碧海郡中島城から追放し、更に加茂郡足助周辺の簗瀬・原田ら阿摺衆と呼ばれる地域的領主連合を懐柔、5月には八面城主吉良一族を帰属させて牧野一族の西条城を攻略、8月には宝飯郡長沢の鳥尾根城を攻略、9月には東条城主吉良義昭の降伏、と着々と戦果をあげていった。このころになると加茂郡足助の簗瀬・原田、東三河の奥平・菅沼・設楽・西郷・白井などの諸士が一斉に今川氏を離れ、元康に帰属した。残るは八名・渥美郡のみとなり、吉田城・田原城・牛久保城の今川方諸勢との激しい攻防戦が展開されるようになった。他方、信長も元康に呼応する形で三河に侵入し、加茂郡西部の挙母中条氏を屈服させて高橋荘一円を占領した。(新編岡崎市史・刈谷市史参照)

 

 

 

1562 永禄5年

長慶、反三好勢力を制圧 

 

京都・岸和田の両戦線は膠着状態が続き、三好方の戦局は悪化の一途を辿った。4月、十河一存没後の岸和田城を救援するため、三好長慶の弟三好義賢が久米田寺に陣して、岸和田城を包囲する畠山高政配下の二万の軍勢を背後から攻撃したが、三好方に戦いの利あらず遂に義賢が戦死し、岸和田城が畠山勢の手に落ちた「久米田の戦い」。京都の戦況も思わしくなく、長慶は将軍足利義輝を石清水八幡に移し、三好義興(長慶の嫡子)・松永久秀ら三好勢も山崎に退去した。その跡を追うように反三好方の六角義賢の兵が入京、それに呼応するように畠山軍が河内に入って、義賢が死んで無主となった高屋城を占拠し、更に長慶の居所飯盛城に迫った。長慶はこの危機的な事態を憂い、洛中から山崎に退去していた義興・久秀らに六角氏への反撃を中止させて河内の戦線に向かわせた。河内戦線の帰趨が三好政権の興廃を決すると見て、全軍をこの畠山氏ら飯盛城包囲軍に集中する方針を採ったのである。5月、長慶は摂津の池田氏らを含む全三好軍数万人に総攻撃を命令、三好軍は河内教興寺において畠山軍を撃破し、河内・和泉の反三好方はおおむね壊滅した「教興寺の戦い」。この戦勝によって京都の戦況も三好方有利に展開し、一年近く京都を占領していた六角氏も長慶と和して近江坂本に撤退した。翌年には根来衆と長慶との間にも一応の和睦が成立した。こうして河内・和泉・紀伊は元の三好方の勢力下となり、長慶は飯盛城にあって畿内に号令するという、長慶全盛時代を迎えた。(大阪府史・兵庫県史・和泉市史参照)     

 

 

毛利、石見を平定 さらに出雲へ侵入 

 

毛利元就はいよいよ本格的な尼子討伐に乗り出し、石見・出雲に向けて進軍を開始した。最初の作業は、勇猛で名高い尼子方の重鎮本城経光を始末することである。彼は出雲に入る要衝須佐の高矢倉城に拠って大森銀山を含む石見東部を守っていた。この難関を突破しなければ出雲に入れなかった。元就は兵の損耗を防ぐため、本城氏を計略によって落とす作戦を採り、高禄を与える条件で元就の陣営に加わることを勧めた。単純にして戦闘に強い戦国武将の典型たる本城氏は、まんまと元就の計略に乗せられ、遂に尼子氏に背いて元就に降伏した。これによって石見東部は一気に毛利の支配地となり、石見が平定された。本城氏の毛利方への転向は尼子方武将に衝撃を与え、出雲の多くの諸将を元就に附属させる結果となった。この機を捉えて元就は出雲に侵入し、ここで更なる計略を実行した。本城氏の暗殺である。突如本城氏の陣営に切り込んで、一族一党千三百余人悉く討ち果たし、一瞬にして大兵団を消し去ったのである。この出来事は前に服属した諸将を震撼させ、熊野・白鹿・阿用・大東・牛尾の諸城が再び尼子に復帰するという結果をもたらした。しかし赤穴・三沢・三刀屋ら出雲西南部の諸将は動かなかった。元就は彼らを率いて今市を出陣し、洗合に城塁を築いて晴久の拠城富田城に対峙しながら、翌年の総攻撃に備えた。(羽須美村誌参照)

 

 

織田・松平同盟が成る 

 

1月、松平元康(後の家康)は清洲城を訪れて織田信長と同盟の起請文を取り交わした。元康の母於大の兄水野信元の斡旋によるものである。この同盟形成の要望は双方の側にあった。元康は三河統一を達成するために是非とも西方の安全を確保せねばならなかったし、信長は美濃の斎藤義龍と激しい戦いを展開していたため、東方との友好が不可欠だった。このように両者はそれぞれ共通の利害を以って同盟が成立したのである。さて、この同盟に関連して元康には他にもう一つ解決しなければならない問題があった。それは元康の妻子の事で、元康の正室築山御前、長男の信康、長女の亀姫が駿府の今川氏真に人質に取られていたのである。そこで元康は彼らを救出するための一計を案じ、まずは西郡城に鵜殿長照を攻めて同氏の子を生け捕りにした。鵜殿氏の妻は氏真にとっては従兄弟にあたる。元康はその生け捕った人質を駿府に送り、これと築山御前、信康、亀姫とを交換させることで、みごと彼らの救出を成功させた。ここに元康は今川氏からの独立を完全に果たし、翌年には信長の長女徳姫と信康との婚約を成立させるなどの強固な裏付けを以って織田と松平の同盟が成った。(浜北市史参照)                                                                                                                                   .                                                                              

  

三州錯乱 

 

織田信長との同盟を成立させ、更に人質を救出した松平元康は、直ちに東三河に進出して今川勢との攻防戦を展開した。これ激怒した今川氏真が採った行動は、人質の処刑であった。吉田城内にあった松平一族や西郷・菅沼・奥平ら東三河の人質が吉田城下竜拈寺で串刺しにされたのである。それ以後、今川勢の攻勢は激しさを増し、野田城・新城・五本松城などの家康属城が攻め落とされた。一方、元康は一宮に砦を築いて牛久保城・吉田城を攻略すべく進撃した。しかし氏真が佐脇・八幡に砦を構えて反撃に出たため、いったん一宮に撤退したが、家康は再攻撃をかけて佐脇・八幡の両砦を攻め落とした。これが「三州錯乱」と呼ばれる戦乱の幕開けとなった。(新編岡崎市史参照)  

 

 

小田、北条方に転向 

 

上杉謙信の関東からの引き上げに伴って、北条氏康は直ちに反撃を開始した。それは軍事的手段のみならず調略の手も各所に伸ばしていった。調略で大きな成果を上げたのは常陸小田城の小田氏治である。小田氏が謙信から離反し、それに連動して祇園城の小山秀綱らも小田氏と共に氏康に同調した。小田氏らが転向した理由は南方からの北条氏の圧力もあったろうが、主にはその前年に真壁城の真壁九郎が佐竹義昭に従属したことにある。年来の敵、真壁氏が佐竹方となったことによって小田氏が北条方に転じるという、敵対関係にある隣接勢力の動向によってその帰属関係が変遷していく状況が覗われる。(牛久市史参照) 

 

 

北条、古河城を奪回 娘婿の義氏を公方に据える

北条氏康の調略は下総・下野・上野方面へも伸びていった。まずは下野唐沢山城の佐野昌綱・上野館林城の赤井照康らが、北条方の調略を受けて上杉謙信から離反した。そのため古河城は周囲を北条方に囲まれる形となり、謙信が公方に据えた足利藤氏の身に危険が迫ってきた。このころには東に北条方の結城晴朝があり、南には小田氏治が北条方に転向し、北には同じく北条方となった小山秀綱があり、今更に佐野氏・赤井氏が北条方に寝返ったのである。これに怯えた公方藤氏は謙信に一刻も早く関東に出兵するよう頼んだ。求めに応じて越山した謙信は2月、直ちに館林城を攻めて赤井氏を降伏させ、更に3月、唐沢山城を落として佐野氏を服属させた。その後、謙信は越後に撤退するが、そのとき古河にいた近衛前嗣を連れて帰っている。関東に何らの軍事的、経済的基盤をもたない前嗣は、古河在城に耐え切れず、謙信の懸命の慰留をふりきって越後から京都に帰って行った。前嗣が古河を離れたことで謙信の関東支配の構想は崩れ、謙信はこのときから藤氏を推戴保護することをやめた。一方、謙信の撤退に乗じて北条方が古河城を攻めたため、藤氏および家臣の梁田晴助は城を脱出し、藤氏は里見義堯の許へ逃れていった。古河城へは氏康の息のかかった義氏が入って公方に返り咲いたことは言うまでもない。尚、それまで義氏が居城していた関宿城は梁田氏に奪われ、上杉方の最前線基地となった。(新潟県史・羽生市史・古河市史参照)

 

 

北条、武蔵に反撃を開始 

 

上杉謙信が越後に帰国すると、北条氏康の反撃は激しさを増した。氏康率いる本隊軍は松山城に向けて武蔵を北上し、他方、遠山綱景ら江戸衆を率いる別働隊は葛西城に向けて下総方面へ進軍した。本隊軍はまず三田秀綱の居城勝沼城を攻め落として三田一族を滅亡に追い込むとともに、多摩・入間郡に散在する三田氏の同盟者、毛呂・岡部・平山・師岡・賀沼氏らを降伏させた。次いで高松城・御嶽城を中心に大里・秩父地方を支配する藤田氏の掃討作戦を展開した。その間、別働隊は葛西城を攻め落とした。これらの戦果を経て、氏康はいよいよ上杉方の拠点となっていた松山城の奪回に乗り出した。北条勢三万五千を以って松山城の攻撃が開始されたが、落ちる気配がなかった。このままでは背後を佐竹・里見氏などの上杉方に襲われる危険を感じた氏康は、短期決戦を目指して、同盟関係にある武田信玄に援けを求めた。11月、信玄は二万ともいわれる大軍を率いて松山城に着陣し、合わせて五万五千にのぼる大軍団が松山城を包囲した。数千人ともいわれた松山籠城兵の劣勢は明らかであったが、しかしなお城は落ちなかった。「山城なるにより 金堀りを入れて崩す 城兵きびしく鉄砲を打ちてこれを払い 城落つることあたわず」と戦記に伝えるように、この松山合戦は攻めの金掘りと守りの鉄砲の対決として戦史に名高い。一方、岩付城の太田資正から急報を受けた上杉謙信は直ちに出陣し、八千の兵を率いて深雪の国境を越えた。前年の9月に信州川中島で演じられた謙信と信玄の対決が、ここ松山城下で再現される形勢となったわけである。その決着を見るのは翌年のことである。尚、このころには忍城の成田長泰が謙信を見限って北条方の陣営に就いた。その原因は二年前、成田氏が鶴岡八幡宮で謙信から辱めを受けたことにあったらしい。(新編埼玉県史・東松山市の歴史・東京都の歴史・勝浦市史参照)

 

 

 

1563 永禄6年

信長、小牧山に移転 美濃侵略の拠点とする 

 

この年、織田信長は清洲を出て小牧山を居城と定めた。この地は南方に尾張・三河・伊勢の平野を望み、北方は木曽川を隔てて美濃平野に向かう要衝の地であった。これから信長が美濃を攻める上で大変有利な場所だったのである。当時、信長は美濃の斎藤龍興と敵対しており、美濃攻略のための準備が着々と進められていた。松平元康と同盟を結んで東方からの脅威を無くしたこともさることながら、この小牧への移転も美濃攻略の重要な布石であった。他にも美濃国人衆の懐柔も秘かに行われ、更に近江の雄浅井長政との同盟を視野に入れた活動も行われた。そして、これらの準備が万端整う二年後より、小牧から美濃に向けて軍を発進する。(新修大津市史参照)

 

 

豊芸講和 毛利隆元逝去 

 

大友宗麟が北九州の奪回作戦を展開し、豊前松山城の攻撃を開始した。宗麟は尼子義久(永禄3年晴久死去 その後義久が家督を相続)と通じ、毛利の大軍が出雲に発向したのを見て挙兵したのである。毛利元就はこれから尼子討伐に本腰を入れようと大軍を送り込んだ矢先の出来事だったので、大いに慌てた。元就は宗麟との抗争によって尼子討伐を中止するのは不得策と考え、一方において長男の隆元に松山城の救援に向かわせながら、他方において宗麟の軍事行動を停止させるべく幕府に講和交渉を要請した。このとき元就が幕府を動かすために採った対策は大森銀山の収入の半分を将軍と朝廷に献上することであった。結果、将軍足利義輝が調停に乗り出し、たまたま松山城を強襲した大友軍が隆元率いる毛利軍に反撃されて大敗したこともあって、宗麟はこれに応じることになった。講和の条件は以下の通りまとめられた。1、宗麟の女子を輝元(隆元の子・元就の孫)に嫁すること。2、筑前で毛利方についた宗像・筑紫・秋月・高橋らの諸氏を大友方に復帰させ、その所領と権利を保障すること。3、豊前は規矩・京都郡の毛利支配を認めながら、松山城を大友の所領とすること。4、毛利氏が握っていた香春岳城を破却し撤退すること。これらを宗麟が承諾したため、「豊芸講和」が成立した。これでようやく、元就は背後の敵を押さえて尼子討伐に専念できる環境を得たのである。尚、松山戦の任務を終えた隆元は吉田を経て出雲に帰陣する途中、急病を発して突如逝去した。四十一歳であった。後継者を失った元就の胸中は察するに余りある。(邑智町誌・北九州市史参照)  

 

 

毛利、尼子方補給路を遮断 因幡・伯耆に毛利方諸将が蜂起 

 

毛利元就は白鹿城攻撃に隆元の来着を待っていた矢先、彼の頓死を知った。元就は悲痛やるかたなく隆元の弔い合戦として白鹿城に総攻撃を命じた。吉川元春はじめ諸将は勇躍し、まずは白鹿城の外郭全部を占領した。それからは持久包囲の策を採り、大森銀山の杭夫数百人を徴発して坑道を掘らせた。しかし敵味方の坑道が相貫通して坑道内で勇士が戦い、遂には尼子方が坑道内に石を詰めたため、この作戦は一頓挫した。今度は総力戦に切り替え、白鹿城の本丸に強襲を加えて包囲網を縮小強化し、水口を遮断した。水口を断たれた籠城兵は困窮し、その七十余日後には城将松田誠保が万策尽きて元就に降伏した。同じころ富田城もまたその包囲作戦が功を奏しつつあった。富田城では糧食その他の必要物資を因幡・但馬方面に求めていたので、元就は出雲美保関より伯耆弓浜沿岸一帯にかけて水陸両面を厳戒し、尼子方の輸送船を襲って補給品を奪い取るなど、いっそう富田城の孤立化を図っていたのである。対する尼子の将山中幸盛は、毛利方に寝返っていた行松正盛の泉山城を攻略して補給路の確保を図ろうとしたが失敗した。この毛利方優位の形勢は更に伯耆東部・因幡方面へも広がっていった。伯耆東部では、かつて尼子氏に逐われて没落していた羽衣石城の南条宗勝、堤城の山田重直らが本貫地に帰って尼子方の背後を脅かすようになっていたし、因幡でも、鳥取城番の武田高信が因幡守護山名豊数の布勢天神山城を攻め取り、山名氏を鹿野城へ逐いやって因幡の覇権を握っていた。ここに至って毛利の勢力は山陰を覆い、補給路を断たれた尼子氏の衰勢が明らかとなった。(大朝町史・羽須美村誌・新修鳥取市史参照)

 

 

三村、備前に侵攻 

 

三村家親は毛利軍として出雲戦線に参加していたが、ここで毛利元就の許しを得て本国備中の松山城に帰り、備前への侵攻を図った。備前は天神山城主浦上宗景の領国だが、その家臣である沼城主宇喜多直家の台頭が著しく、金川城の松田元賢・虎倉城の伊賀久隆らと結んで津高・御野・上道郡などの備前西部を支配し、備中へ進出する勢いを示していた。家親はそれを防ぐための先手を打とうとしたのである。間もなくその行動が開始された。家親は備前侵攻に先立って、船山城の須々木豊前・岡山城の金光宗高・中島城の中島大炊助らを味方に付け、その上で直家の支配下にあった竜ノ口城を奪い取った。家親の幸先は良好で、これより直家との本格的な対決に闘志を燃やした。だが図らずも元就から出雲への出動要請があったため、やむなくその中断を余儀なくされた。実際の対決は四年後に持ち越されるが、直家がその間指をくわえて待っているはずはなく、周到な準備期間を敵に与えてしまうことになった。(総社市史参照) 

 

 

長宗我部、土佐中南部を掌握 

 

長宗我部元親は本山茂辰との決戦に備えて、本山氏麾下の武将を調略するなどの入念な準備を行ない、元親の支配権力を土佐平野に浸透させていった。一方、本山氏もまた元親の脅威を防ぐため、本山・朝倉の両城を中心とした防衛ラインの強化を図った。そして9月、遂に両者は土佐支配権をめぐる決戦の日を迎えた。戦闘は朝倉城下で行われ、卯の刻より酉の下刻までの三十余度の戦いに本山方は軍勢二百三十五人が討死し、元親方も五百十一人が討死したと伝えられている。戦いはすさまじいものであったが、決定的な打撃を与えることはできず双方引き揚げた。その三ヶ月後の翌年1月、本山氏は麾下の武将の多くが元親に属した現状から、朝倉城死守の容易でないことを悟り、同城を焼いて本拠本山城に退去した。結果、戦いは元親の勝利となって、仁淀川以東の土佐中南部は完全に元親の支配下に置かれることとなった。(高知県史・高知市史・南国市史参照)

 

 

長宗我部、馬ノ上を占領 

 

この年、長宗我部元親はある事件を発端に安芸城の安芸国虎と激突した。当時、元親は夜須・大忍庄の前衛基地として、上夜須城に家臣の吉田重俊を入れて守らせていたが、その夜須へ安芸氏の属領である馬ノ上城の兵が侵入してきた。吉田氏はその兵を捕らえ、安芸氏の許へ送り返して謝罪を求めたのだが、安芸氏は彼を罰することなく無罪放免してしまった。この処置を怒った吉田氏は報復のために馬ノ上城を占領した。この事件を発端に、ここから元親と安芸氏の激突が始まったのである。馬ノ上城が占領されたことを知った安芸氏はすかさず反撃し、自ら五千の兵を率いて元親の居城岡豊城に進撃して来た。岡豊城は元親が本山城に出兵中だったので守兵少なく、たちまち苦境に陥った。急を聞いて集まってきた武士たちを合わせて城兵五百騎ばかりとなったが、その劣勢は如何ともし難い。安芸勢が大手門を破ろうと攻撃を加えるに及んで岡豊城は危機に瀕した。そのとき夜須の吉田氏が援軍を率いて到着、安芸勢は思いもかけず腹背に敵を受けて急に戦意を失い退却を始めた。生気を取り戻した城兵は一斉に追撃戦に転じ安芸勢を追い返した。まさに九死に一生の逆転劇であった。これより元親は安芸氏を滅ぼすべき対象と定め、周到な殲滅計画を練る。(夜須町史・高知県史参照)  

 

 

浅井、六角氏と敵対 

 

10月、近江六角義賢が重臣の後藤賢豊を謀殺するという事件が起こった。世に言う観音寺騒動である。この事件は、義賢の跡を継いだ義治が、義賢の許で権勢を振るっていた後藤氏の、あまりにも強くなりすぎたその力を削ごうとしたものである。事件を知った重臣らは六角氏の本拠観音寺城を出て次々と自分の館に帰り、湖北の浅井長政と連絡をとって主家六角氏を挟撃する構えすら見せたのである。浅井氏の軍勢は愛知川付近まで南下し、義賢は甲賀郡三雲の三雲氏の許へ、子の義弼は蒲生郡日野の蒲生定秀の許へそれぞれ難を避けて移った。その後間もなく義賢・義弼父子は蒲生氏の尽力によって再び観音寺城に戻り、浅井氏も軍馬を北に引き上げたので、騒動は一応終息した。終息したとはいえその代償は大きく、この事件によって六角氏の領国支配が揺らぐとともに、六角氏と浅井氏との敵対関係が明らかとなった。(新修大津市史・栗東の歴史参照)   

 

 

有馬、丹坂口で龍造寺勢と対戦 

 

大友宗麟は少弐家を肥前に復興させようと策し、島原日野江城の有馬晴純にその協力を依頼した。有馬氏はこれを受け、今では龍造寺隆信が統治する佐賀に攻め入った。有馬氏の本当の狙いは、牛津川以東を領する千葉氏を討って東に領域を拡大することにあったと思われる。西肥前には有馬氏に応ずる者が多く、高来郡伊佐早城の西郷純尚を始め、杵島郡須古の平井経治・藤津郡の吉田・宇礼志野・原等の諸城将が出兵した。3月、有馬氏は先陣を杵島郡の横辺田に進め、堤尾岳に砦を構えた。対する隆信は小城郡高田に布陣した。千葉氏も龍造寺方に加わって小城郡丹坂ロに出陣した。有馬氏は7月、島原弥助を大将に高来・杵島両郡の兵を率いて丹坂口に進軍し、ここで両軍が激突した。結果は有馬軍が敗北し、龍造寺軍は逃げる有馬軍を追って杵島郡に攻め込んだ。だが追撃もここまで、龍造寺軍は須古の平井氏に阻まれたため進軍を中断し、意気揚々と佐賀に凱旋した。一方、敗れた有馬氏は肥前における権威が失墜して衰退への道を辿っていく「丹坂口の戦い」。(佐賀市史・鹿島市史・佐世保市史参照)

 

 

三河一向一揆勃発 

 

松平家康(元康から改名 後の徳川家康)が三河の制圧を目指している最中、三河一向一揆が勃発した。この一揆は西三河の本願寺宗寺院を中心とした門徒が、徒党を組んで家康と戦ったものである。家康譜代の家臣の中にも一向宗門徒が多かったので、一揆に加担する者が相当数に達しており、そのため家康の家臣団も二つに分かれて戦うことになった。一揆発生の原因は諸説があってはっきりとしないが、このころ北陸では一向一揆が加賀・能登・越前の三国を風靡し、近畿でも石山本願寺が中心となって教権の拡大を図っていたので、三河の門徒もこれに刺激されて立ち上がる機会を待っていたと思われる。一揆の勢力はたちまちのうちに額田・幡豆・碧海の三郡に広がり、各地で激突が繰り返された。家康も窮地に陥ることがしばしばであった。しかし半年を経過すると一揆側の勢力もようやく弱まり、翌年には和睦を以って終息した。その折、「道場・僧侶ともに従前の如く認める」という和睦条件は家康によって無視され、改宗を聞き入れない諸寺が悉く焼き討ち、あるいは破却された。(足助町誌参照)

 

 

北条、松山城を攻略 小山・結城、謙信に降伏 

 

昨年から北条・武田連合軍五万五千の兵が松山城を攻撃しているが、城はなかなか落ちなかった。籠城兵は三千、上杉憲政の養子憲勝が立て籠もっていた。2月、救援に駆け付けた上杉謙信は既に石戸付近まで進んでいたが、しかし石戸に到着するや、松山城が前日に落城したことを知らされた。北条氏康・武田信玄が策を凝らし、謙信出陣の情報を遮断した上で憲勝を懐柔したのである。寸手のところで防衛に失敗した謙信はこれを嘆き、人質に取っていた憲勝の子を殺したという。敗北した謙信は岩付城に引き揚げたが、怒りを抑えられず、その矛先を騎西城に向けた。騎西城はかつて謙信に辱めを受けて北条方に寝返った成田長泰の属城である。守っていた兵力は二百騎足らずであったが、それでも城兵は要害堅固な城を頼りに善戦した。しかし兵力の差は如何ともし難く、4月、上杉勢の猛攻によって遂に落城し降伏した。謙信の怒りは更に北条方に寝返った祇園城の小山秀綱、及び寝返りを勧めた結城城の結城晴朝にも矛先が向けられ、佐竹義昭・宇都宮広綱らと共に祇園城に攻めかけた。結城氏も祇園城の救援に駆けつけて両者必死の戦いとなったが、衆寡敵せず祇園城はわずか二、三日で上杉勢に落とされ、小山・結城氏共に人質を差し出して謙信に降伏した。謙信はまた古河城も陥れて足利義氏を追い出し、久留里城の里見義堯の許に匿われていた足利藤氏を古河城に呼び返した。しかし6月に謙信が帰国すると、氏康はそれを待っていたかのように古河城を攻め、藤氏を捕らえて伊豆に幽閉し、代わりに義氏を古河城に送り込んだ。(騎西町史・小山市史・結城市史・東金市史参照) 

 

 

信玄、上野西部を占領 

 

武田信玄は 松山城攻撃に善戦するも、同時に上野の進攻も休みなく続けられていた。真田幸隆が鳥居峠から吾妻方面へ、信玄自身が甘楽・碓氷谷を通って上野中央部へ向かう二面作戦である。吾妻方面では6月、真田氏は既に降伏していた鎌原幸種と共に進軍し、羽尾氏が占拠する鎌原城を攻略した。次いで長野原の合戦で斎藤憲広の軍勢を破り、更に大戸城を攻めて大戸中務少輔を降した。そして吾妻地方最強の武将斉藤氏が拠る岩櫃城へと移っていった。岩櫃城は吾妻川と四万川によって南と東を画された天嶮の山城である。力攻めを不利とみた真田氏は調略に切り替え、10月、城衆を内応させて遂にこれを落とした。城を追われた斉藤氏は獄山城に逃げ込んだため、真田氏はそれを追って同城を囲んだ。同じころ信玄自身が率いる本隊軍は峯城・松井田城・安中城の諸城を陥れていた。これらの城は箕輪城の長野業政の支配圏に属していたので、その落城によって長野氏の孤立が一層深まった。(群馬県史・長野市誌・安中市史参照)

 

 

 

1564 永禄7年

長慶死す  松永氏が実権を掌握 

 

永禄6年(1563)8月、三好長慶の嫡子義興が摂津芥川城で死んだ。僅か二十二歳であった。松永久秀が毒殺したという風評が立っていた。長慶は弟十河一存の子義継を後嗣としたものの、義興を失った悲しみにより往年の気力が全く失われ、廃人のようになって政務も軍事も全てを久秀のなすがままに任せるようになった。この永禄7年(1564)5月、更なる不幸が襲った。故あって長慶が弟の安宅冬康を殺してしまったのである。従者十八名も共に殺されたという。冬康は武将として、また隠れなき歌人として知られた程の教養人であって、これまで兄義賢・十河一存(二人とも既に戦死)らと協力して長慶の覇業を支えてきたが、これもまた久秀の讒言によって長慶に疑われ、殺害されるに至ったと噂された。これらが果たして久秀の企画した陰謀であったかどうかは別として、畿内の実権は瞬く間に久秀の手中に陥った。それから二ヶ月も経過しない7月、長慶が飯盛城で病死した。四十三歳であった。冬康殺害を後悔するあまりに病状が悪化したのだという。実にここ数年の間に長慶ら兄弟四人と長慶の嫡子が立て続けに世を去ったのである。家督は義継が継ぎ、彼が若年ということで一門の宿老三好長逸・同政康・岩成友通、いわゆる三好三人衆がこれを補佐することになったが、その実権は松永久秀に握られたままであった。(兵庫県史・丹波戦国史・小野市史参照)

 

 

毛利、因幡・伯耆東部を制圧 

 

毛利元就による富田城包囲網は着実に進行し、この年は特に因幡・伯耆での戦闘に重点が置かれた。伯耆では南条宗勝・山田満重らの伯耆衆や三村家親の備中衆がその任に当たり、まもなく彼らによって日野氏の天方城・不動ヶ岳城が落とされた。この段階で因幡・伯耆方面から富田城へ通じる輸送路は完全に遮断され、尼子方の孤立化が一段と深まった。また因幡では毛利方に転向した武田高信が、因幡守護山名豊数が籠る鹿野城の攻略を図っていた。対する山名方は、惣領家の但馬守護山名祐豊が鹿野城を救援するため因幡に進出し、気多郡北部の大崎・宮吉城を窺う構えを示した。山名氏は気多郡の海辺部を占拠して鹿野城の補給路・退路を確保しようと目論んだらしい。この動きを知った南条・山田氏ら伯耆衆は、武田氏に呼応して急ぎ宮吉城に入城し、元就もまた八橋包囲陣から五十~六十人を加勢として同城に急派させた。両軍は鹿野表で激突し、毛利軍が山名勢を追い払って鹿野城を占領した。こうして因幡は毛利氏によって平定され、因幡・伯耆に残る尼子方の城は江尾・八橋の二城のみという状況になった。(倉吉市史・新修鳥取市史・鹿野町誌参照) 

 

 

長宗我部、本山氏を瓜生野に逐う 

 

長宗我部元親は本山氏を滅ぼすべく最後の決戦を画した。今では本山氏は昔日の面影なく、配下にあった武将たちの多くが元親に降伏していたので、勝敗の行方はこのとき既に明らかとなっていた。とはいえ本山茂辰が籠もる本山城は天嶮をたのんだ要害の地であったので、元親は慎重に作戦を練った。そこで元親が先遣隊として白羽の矢を立てたのが森孝頼である。森氏は代々土佐郡森郷を領していたが、かつて本山氏の攻撃を受けたことがあって、そのとき岡豊城に赴き、長宗我部国親(元親の父)の保護を受けて潮江に城を与えられていた。そういう経緯の中でこのたびの出動命令が下ったのである。森氏は長宗我部氏への報恩と父祖の復讐のために元親の命を喜んで受け、旧領に帰って反撃の時期を待った。そのことを知った本山氏は先手を打って森郷に出兵した。しかしこのころには味方の離反が相次いでおり、本山城さえも危うい状態になっていたので、茂辰はやむなく城を捨てて瓜生野に逃げていった。かくして元親は空城となった本山城を無血で入城し、ここに土佐中原が元親の制圧するところとなった。(高知県史参照)         

 

 

織田・浅井同盟 織田・武田同盟が成る 竹中重治の乱 

 

織田信長は小牧山に移ってから次々と美濃攻略のための本格的な手を打ち始めた。その一手は湖北の有力大名、小谷城の浅井長政との同盟である。信長は長政に使者を送って信長の妹お市をめあわせることを申し入れた。当時、長政の父久政は六角義賢に属していたため、六角氏の家老の娘を長政に娶らせ、かつ義賢の偏諱を受けて賢政と名乗っていた。しかし長政はこれを喜ばず、妻を追い、逆に信長の勢威を慕って長政と称した。つまり長政は六角氏と手を切り、お市を迎え入れて信長への恭順の意を表明したのである。こうして織田・浅井同盟が成立した。(栗東の歴史・新修大津市史参照) 二手目は甲斐の武田信玄との同盟である。信長は信玄の四男勝頼へ信長の姪を養女として嫁がせんことを申し込んだ。養女とは信長の妹が産んだ苗木城主遠山直廉の子である。信玄はこれを承諾し、翌年にその実を結ぶ。(多治見市史参照) 三手目は思わぬ経緯から手が打たれた。それは菩提山城主の竹中重治が主君の斉藤龍興を追い出して稲葉山城を乗っ取るという事件「竹中重治の乱」があり、信長がこれに目を付けたのである。信長は重治に対して再三稲葉山城を譲渡するよう交渉したが、重治がこれを固辞したのみならず、龍興に城を返還してしまった。つまり交渉は失敗したのだが、この失敗は失敗に終わらない。この事件によって龍興の弱体ぶりが白日の下に晒され、そのことが家臣の離反に拍車をかける結果となったのである。信長はすかさず彼らを懐柔して味方に引き入れることに成功した。これによって信長の美濃侵攻計画は前倒しされ、翌年早々から開始されることになった。(岐阜市史・岐阜県史参照)                                                                                  .      

 

第二次国府台合戦 北条、太田・里見軍を撃破 

 

岩付城の太田資正は北条氏康に乗っ取られた松山城を取り戻すため、上杉謙信や里見義堯との連絡を密にして北条打倒の計画を打ち出した。それは氏康を国府台に誘き出して、太田・里見・上杉連合軍がその背後を突くという作戦である。幸いにも謙信はこのころすでに常陸の山王堂まで来ていた。それは佐竹義昭が北条方に寝返った小田氏治を討伐するために、謙信に救援を求めたものであった。実はそれより前、越後にいた謙信は、武田勢に攻撃されていた倉賀野城主倉賀野氏からの救援要請を受けて、上野厩橋城に入ったのだが、武田勢は謙信来たるの報を得て上杉勢と戦うことなく撤退してしまった。その矢先に、今度は佐竹氏から救援の要請があって山王堂まで来ていたのである。謙信がすぐ近くまで来ていることを知った太田氏は、これ幸いと急ぎ計画を実行に移した。ところがその計画は事前に北条側に漏れていた。1月、氏康は「兵糧は三日分用意せよ 陣夫は一人も連れず直ちに出陣せよ」と諸将に命じて迅速果敢な行動に出た。つまり短期決戦の覚悟で敵の陣備えが整わないうち、特に謙信の来援のないうちに敵を叩こうとしたのである。戦いが長引けば謙信に背後を襲われる危険があったからだ。このときの北条方の兵は二万であり、太田・里見連合軍の兵は八千であったという。先に戦場に到着した里見勢は国府台の台地上で氏康が来るのを待っていた。遅れて氏康が国府台の上流松戸寄りの搦め手の瀬あたりに到着し、江戸川を挟んで両軍が対峙した。そして氏康はこの瀬を渡って一挙に敵に襲いかかった。すると太田・里見連合軍の地形を利用した巧みな戦術にはまって氏康が大打撃を受けた。諸戦は氏康の敗北であった。ところがその後の戦局は逆転した。氏康は翌日明け方に本隊軍が北から、分隊が南から国府台をめがけて、敵勢を押し包むように一斉に攻めかかったのである。不意を突かれた太田・里見方は総崩れとなり、太田氏は岩付城へ、里見氏は安房へ逃げ去った。彼らは謙信率いる大軍が駆け付けてくれるものと思い込み、そこに油断が生じたのであろう「第二次国府台合戦」。(東金市史参照)

 

 

北条、上下両総を支配 

 

第二次国府台合戦で大勝を博した北条氏康は敗走する里見勢を追撃し、2月には椎津城、5月には池和田城、6月には小糸城を落とし、7月には高根郷まで進出して里見義堯の本拠たる久留里城・佐貫城を包囲した。実に合戦から半年余りで養老川流域はもちろんその上流まで氏康の勢力下に置かれることとなったのである。恐らくこのとき平蔵城や音羽根城等も自落したと思われる。また養老・小糸両川谷も北条方に抑えられ、そうなると小櫃川上流の久留里城などは自力で支えきれるものではない。10月には遂に久留里・佐貫の両城とも氏康の手中に落ち、里見氏の勢力は上下両総から大きく後退した。里見氏だけでない。その他房総の国衆にも大きな変動を余儀なくされた。それは東金酒井胤敏・勝浦正木時忠・真里谷武田氏らであった。東金酒井氏は合戦後本拠に帰還できず、帰還を果たすためにやむなく氏康に従属したものと思われる。このとき東金酒井氏と同族の土気酒井胤治は、東金酒井氏と敵対関係にあったことから里見方に留まっている。勝浦正木氏は合戦以前から氏康に誼を通じていたらしく、里見氏の勢力が下総より全面撤退に追い込まれたときにその寝返りが明らかとなった。彼は合戦後、長谷新城に在城していた同族の小田喜正木信茂を襲って小田喜城を占領し、信茂が統治していた香取郡一帯をも奪い取った。更にその勢いで一宮城をも奪い取って城主の一宮正木時定を没落させた。この流れの中で四方を北条方に囲まれる形となった真里谷城の武田氏もまた、氏康への降伏を余儀なくされ、下上両総は土気酒井氏を除いて全てが北条氏一色に塗り替えられたのである。(東金市史・千葉県の歴史・勝浦市史参照) 

 

 

北条、岩付領を支配 

 

第二次国府台合戦で敗れた太田資正は拠城の岩付城に帰ろうとするが、そこには悲惨は結末が待ち受けていた。岩付城は北条氏康の謀略によって乗っ取られていたのである。謀略は氏康が太田家の内訌を利用して行なわれた。内訌とは、資正が次男の政景を溺愛して長男の氏資を廃嫡しようとしていたために起きた父子間の対立である。それを見抜いた氏康は氏資を懐柔し、資正の留守中に城を乗っ取らせたのであった。それを知る由もない資正は帰城するも入城を拒まれ、政景と共に追放されてしまった。ここに太田氏の支配圏である岩付領が一気に氏康の掌握するところとなり、武蔵全土が再び北条氏の勢力圏に復帰した。追放された資正・政景父子はひとまず宇都宮氏の許に身を寄せ、翌年には上杉謙信の支援を受けて岩付城への復帰工作を開始するが失敗し、佐竹義昭の許へ逃れて再び岩付の地に戻ることはなかった。(新編埼玉県史参照)  

 

 

佐竹、小田領を占領 

 

常陸山王堂まで出陣していた上杉謙信は太田資正の救援要請があったにもかかわらず、第二次国府台合戦に参戦しなかった。それは謙信が出陣を忘れていたわけではなく、ただ考えられることは太田氏の作戦予定が2月の末か3月の初めごろということだったので、謙信もそのつもりでいたのであろう。国府台と山王堂といえば距離にしていくばくもないが、北条勢の出撃があまりに急であり、1月中に行なわれたため、北条出動の情報が謙信の許に届かないうちに合戦は終わったのである。さて話を元に戻そう。謙信が常陸に出陣した目的は、北条方に寝返った小田氏治を討伐するためであった。謙信は山王堂に着陣すると、直ちに佐竹義昭と共に小田氏が居す小田城を攻め、七日間の激戦を経て同城を落とした。小田氏は辛くも城を脱出して土浦城に逃れたものの、小田領は佐竹氏の占領するところとなった。それを見届けた謙信は、参戦を逃した国府台合戦を尻目に、むなしく越後へ帰っていった。(東金市史・下館市史参照)         

 

 

信玄、倉賀野城を攻略 

 

昨年の暮れから武田信玄は倉賀野城攻撃のために出陣していたが、上杉謙信が上野に進攻して来ると、信玄もひとまず撤退してやり過ごした。しかし4月に謙信が越後に帰国したので、信玄は待ち構えていたかのように再び倉賀野城の攻撃を開始した。その結果、度重なる武田軍の攻撃に抗し続けてきた倉賀野城も5月、遂に落城した。城主の倉賀野直行は謙信の許に去ったが、倉賀野衆が信玄に所属することを選んだことで、倉賀野領域が信玄の支配下に収まるに至った。これによって上野における長野氏の勢力は箕輪城のみとなり、しかも謙信の後巻きもない孤立状態にあっては、同城を始めとする信玄の西上野占領計画は、その完成がもはや時間の問題となった。(群馬県史・藤岡市史参照)    

 

 

謙信、飛騨を支配 

 

5月、武田信玄は武将の飯富昌景に数百の精兵をつけて飛騨へ進攻させた。信玄は加賀本願寺と盟を結ぶため、その通路に抗する桜洞城の三木良頼を討って飛騨を制圧しておきたかったのである。このとき高原諏訪城の江馬時盛は武田方に与して飯富氏の許に参陣したが、時盛子息の輝盛は三木氏と組んで上杉謙信の救援を求めた。謙信はこれを捨て置けず、越中の留将河田長親に命じて北より攻め入らせ、輝盛を助けて反嗾ハンゼイの策(意味不明)を講じた。その結果、飯富氏は急ぎ旗を巻いて帰国したので、飛騨は大なる災禍を蒙ることなく終わった。武田勢の撤退によって孤立した時盛は人質を出して降伏し、10月、三木氏を含む飛騨諸将の全てが謙信の支配下に入った。(富山県史・宮川村誌・飛騨下呂通史参照)

 

 

第五次川中島の合戦 

 

3月、武田信玄は上杉謙信が関東に出陣している留守を突いて、越後国境に兵を送り、野尻城を落とした。またその一方で一隊を関山城に遣わし、郷村を放火した。それを知った謙信は4月、急ぎ信濃に出陣して野尻城を取り返し、その後ひとまず春日山に帰陣するが、7月に再び出陣し、犀川を渡って川中島に進んだ。対する信玄も松本から川中島へ進出して更級郡塩崎に陣を取った。謙信は佐久方面まで出向するつもりだったが、海津城と塩崎を押さえられては進むことができない。そのうえ川中島は既に敵地であるから長く留まることもできない。やむなく謙信は兵を納めて飯山城に引き上げ、同城を修理して春日山に帰った。この五回目の川中島の出陣を以って謙信の信濃への進攻は最後となった。つまり川中島地方は長い取り合いの末に武田の領有が確定したのである。もはや信濃における上杉方の城は、かろうじて国境に近い野尻・飯山両城のみとなり、この二城も武田方の攻撃に晒された「第五次川中島の合戦」。(飯山市誌・長野県史参照)

 

 

 

1565 永禄8年

将軍義輝、松永・三好氏らに暗殺される 

 

5月、将軍暗殺計画が実行に移され、松永久秀・三好三人衆(三好長逸・同政康・岩成友通)らの軍勢が突如幕府の将軍邸内に乱入した。将軍足利義輝の周辺は僅かに奉公衆数十人が警固するのみで、包囲する松永・三好軍は万を越す大軍であった。勝敗は一瞬のうちに決するかと思われたが、義輝側は奮戦し、午の刻までよく支えた末に切腹あるいは切り死にし、義輝もまた壮絶な最期を遂げた「永禄の変」。なぜ義輝が殺されなければならなかったか。そこにはそれなりの理由があった。このころ自分が傀儡であることに不満を持ち始めた義輝は、京都での安定した地位を回復しようと織田信長や上杉謙信の拝謁を受けたり、東国・九州における合戦の調停に乗り出すなど、高い政治的力量を発揮するようになっていた。そうした最中に実力者の三好長慶が死に、跡の政務を久秀が引き継いだのだが、このままでは義輝の権力が復活して京都が再び戦乱の坩堝に化すと考えた久秀は、阿波平島で養育された足利義維(平島公方)の子義栄を将軍に挿げ替えようと、三好三人衆と結託して義輝暗殺へと舵を向けたのである。以上が暗殺の理由であるが、この凶変で幕府の機能が停止したことはいうまでもない。以後は松永・三好による独裁政権が出現する、はずであったが、歴史の歯車はあらぬ方向へと動き出す。(大阪府史・長岡京市史・福井市史参照)

 

 

義昭(義輝の弟)、救出される 

 

足利義輝暗殺と期を同じくして義輝の生母慶寿院が自害し、弟鹿苑寺院主周祟も謀殺された。更に暗殺の手は義輝のもう一人の弟で、奈良興福寺一乗院門跡であった義昭(当時は覚慶 ここでは義昭で統一)にまで及んだ。義昭は天文6年(1537)に生まれ、同11年(1542)一乗院に入室し、永禄5年(1562)には門跡となっていた。その義昭を松永久秀は一乗院に囲んで軟禁状態にしたのである。しかしその一方で義昭救出作戦もまた細川藤孝によって進められていた。藤孝は幼いころから引き立ててくれた義輝が無念の死を遂げ、ましてその弟義昭の命が狙われている現実を座視することはできなかったのだろう。藤孝は同じ御供衆であった一色藤長と協同して、秘かに奈良に下り義昭の救出を計画、医者を病気治療と称して義昭に近付け、7月、義昭を一乗院から救出させて近江へ落ち延びさせることに成功した。(長岡京市史参照) 

 

 

松永・三好三人衆と対立 

 

将軍足利義輝の暗殺によって松永久秀と三好三人衆による独裁政権が出現するかに見えたが、実際はまもなく両者が対立することとなり、政権樹立どころの話ではなくなった。両者の間でロボット将軍足利義栄の争奪戦が始まったのである。久秀は義栄を将軍にして室町幕府を思い通りに操ろうと企んでいたが、三好三人衆もまた義栄は自分たちのもので、久秀の自由にはさせないと主張したのである。こうして両者が激しく対立するようになり、早くも11月にはそれが形になって現れた。三好三人衆が飯盛城を急襲して松永方の老臣らを殺し、三好義継(長慶の猶子)に迫って久秀との手切れを要求した。これに対抗するため久秀もまた遠く紀伊の畠山高政や根来衆と結んで、三好康長(長慶の叔父)の高屋城を攻めようとした。この高屋城攻めは畠山・根来衆八百人戦死して松永方が敗退するが、両者の戦いは翌年に向けて更に激しくなっていく。(丹波戦国史参照) 

 

 

赤井、丹波を制圧 

 

京都の混乱は即丹波にも飛び火した。今こそ丹波における実権回復のチャンスとみた黒井城の赤井直正が、東に向かって蚕食を開始したのである。特にその流れを決定付けたのは、松永方の丹波守護代内藤貞勝を討ち取った福知山の合戦である。これ以後、天田郡に割拠していた内藤方の小豪族が悉く赤井氏の勢威に屈した。その後も松永久秀に一味する諸豪族に対してその追撃の手を緩めず、遂に船井郡・何鹿郡・桑田郡を制圧し、丹後与謝郡の西部までをも支配するに至った。こうして赤井氏の勢威は丹波に残すところ多紀郡の八上城のみとなったが、その八上城も赤井氏ら八上城の旧主波多野一族と共に城を囲まれた。そのころ八上城は、城主の松永長頼(久秀の弟)が甥の孫六郎を残して兄久秀の救援に向かっていたため、その手薄を狙われたのである。孫六郎は久秀に救援を求めたが来ず、まさに孤立無援の状態となった。久秀にしても三好三人衆との対決に腐心していたので、八上城どころではなかったのであろう。結果、孫六郎は闇夜に紛れて八上城を脱出し、何処かへ落ちていった。ここに丹波は赤井氏ら反松永方によって制圧されたのである。(丹波戦国史参照)         

 

 

毛利、伯耆を平定 富田城を包囲 

 

9月、毛利元就は富田城を孤立させるため、伯耆に残る江尾・八橋城などの尼子方の掃討作戦を開始した。江尾城は泉山城に在番している元就の重臣杉原盛重が蜂塚右衛門尉を討って城を奪い、八橋城は備中の三村家親が吉田源四郎を追い払って城を陥れた。これによって尼子勢は伯耆から消え去り、元就による尼子包囲網が完成した。いよいよ富田城の総攻撃の機が熟したのである。このころには毛利方包囲網が富田城付近まで迫っており、かつ城中は食糧の欠乏が極に達していた。元就は富田城の兵力を削ぐために投降者を募った。尼子譜代の名将相次いで投降したが、ただひとり宇山久信だけはこの窮境にもめげず渾身の努力を続け、食糧の補給、脱落者の防止に当たっていた。このことを知った元就は謀略を使い、「宇山氏が毛利氏に内応する意図あり」と城中に密告させた。これが功を奏して翌年1月、元旦の早朝に宇山氏ならびにその従者十人が仲間内に殺された。ここに富田城は完全に孤立して総攻撃の準備が整った。(羽須美村誌参照) 

 

 

毛利、美作西部を支配 浦上、美作東部を掌握 

 

出雲富田城が崩壊寸前となった今、美作の尼子方城番兵に動揺が起こり、彼らはこれ以上当地を守りきれないと判断して続々と出雲に引き揚げ始めた。そうなると尼子氏の勢いを恐れて服属していた美作の国侍たちは、他の有力武将に鞍替えしなければならなくなり、ある者は浦上方へ、ある者は毛利方へと駆け込んでいった。浦上宗景に復帰したのは、三星城の後藤勝基を筆頭に倉敷城の江見久盛や高田城の三浦貞勝らであり、毛利元就に就いたのは、岩屋城の中村則治や小田草城の斉藤親実らであった。さて、ここから元就の美作戦線が始まる。元就は三村家親に美作侵攻を命じ、中村・斉藤氏らと共に後藤氏が拠る三星城の攻撃に向かわせた。後藤氏を倒せば美作の制圧は容易であると見ての攻撃であった。だが結果は三村氏が惨敗して功なく引き揚げた。浦上氏麾下の宇喜多直家が大兵を率いて救援に駆け付けたからである。三星城の攻略に失敗した家親は手ぶらでは帰れぬと、矛先を転じて三浦氏の高田城を攻めた。高田城では家親の来攻を予想して防戦の体勢を固めていたものと思われるが、謀反人が出たため落城し、城主三浦氏は自害して果てた。これによって美作西部は元就の支配圏となった。(英田町史・上斎原村史・落合町史参照) 

 

 

信長、東美濃を制圧 

 

織田信長は、小牧山を拠点として本格的な美濃侵攻を開始した。これまで西美濃からの侵入は悉く失敗に終わっていたが、昨年、竹中重治の乱が起こって美濃が大混乱したため、それに乗じる形でこんどは東美濃からの侵入を図ったのである。まずは日頃から何かと信長に敵対していた織田信清(信長の伯父)の居城犬山城を奪い取って背後の不安を取り除き、その上で本格的な美濃侵攻に取り掛かった。伊木城を取って美濃への前進基地としたのを皮切りに、鵜沼城の大沢次郎左衛門を羽柴秀吉の策によって誘い降し、加治田城の佐藤紀伊守を丹羽秀家を介して信長に内通させた。更に堂洞城の岸勘解由にも誘降を図って金森長近を遣わしたが、彼は説得に応じなかった。そこで信長は8月、先に内通していた佐藤氏を先陣として堂洞城の攻撃に向かった。このとき関城の長井隼人が堂洞城の救援に出兵してきたが、信長はその救援軍を食い止めながら、堂洞城に総攻撃を掛けて岸氏を自害させた。翌日、信長は反転して長井氏を追撃し、居城の関城を落として彼を北陸へ追った。同じころ久々利城の土岐氏が風を読んで信長に降伏した。こうして東美濃は斉藤方の勢力が稲葉山城から分断され、信長の支配下に入った。(可児町史参照)

 

 

家康、三河を平定 翌年、徳川に改姓 

一向一揆を解体した松平家康(昨年4月に元康から家康に改名)は、これより東三河への進攻を開始した。その際、家康は軍事行動よりも今川方の三河国人衆を味方に引き入れ、遠江・駿河衆を孤立化させることを先行させた。すなわち小松原の東観音寺・老津の大平寺・小坂井八幡の莵足神社などに禁制を発する一方、二連木城の戸田重貞を誘降して本地安堵を約すなどした。この懐柔策によって戦況は大きく家康方有利に傾き、既に今川方の重要拠点である吉田城が孤立した。そこで家康は糟塚・喜見寺・二連木などに軍勢を配して吉田城の包囲体制を採った。今川方もよく持ちこたえたものの、翌永禄8年(1565)3月に至って遂に開城となった。吉田開城と同じころ田原城もまた開城した。この二城の開城によって三河国内での今川方の拠点は失われ、三河が完全に家康の制するところとなった。中には牛久保城の牧野一族のように最後まで今川方であった者もいたが、今川勢の三河退去と共に彼らも没落したとみられる。ここに家康は桶狭間の戦い後五年を経て三河一国の支配を実現したのである。但し一国支配といってもこの段階では、加茂郡西部は織田領となっており、家康の支配下にはなかった。また碧海郡の大部分も信長の家臣となっていた刈谷城主水野氏(家康の伯父)の領であり、これも家康領国の外であった。尚、家康は翌永禄9年(1566)に朝廷から三河守の受領名を与えられ、姓を徳川に改め、名実共に三河の支配者として歩み始める。(新編岡崎市史・浜北市史参照)

 

 

信玄、上野吾妻郡を掌握 

 

上野岩櫃城の斎藤憲広は永禄6年(1563)に真田幸隆によって城を追われ嶽山城に逃げ込んだが、その獄山城も真田氏が包囲して既に二年が経ち、この永禄8年(1565)になってもなお落城の気配がなかった。そこで真田氏は戦略を切り替えて和睦を申し入れた。それを受けたのは斉藤氏の重臣池田佐渡守であった。池田氏との和議が整い、彼の退出を見届けた後、真田氏は本格的な嶽山城の攻撃を開始した。両軍は城の西方の成田原で戦い、城方が五反田まで退くと、これを追いかけて城の下まで押し寄せ取り囲み、11月、遂に斉藤氏が自害して落城した。この嶽山城の落城によって吾妻郡はようやく武田氏の手中に入り、箕輪城に対する北からの攻略と越後勢を防禦する拠点となった。(群馬県史参照)

 

 

 

1566 永禄9年

三好三人衆、畿内を制圧 

 

松永久秀と三好三人衆の対立は昨年、河内高屋城で戦いの火蓋が切られたが、この戦いは久秀が三人衆方の死守に阻まれて敗北し、堺へ撤退するという結果に終わった。更にこの年5月、これを追撃した三人衆が堺の市街戦で打撃を与えたことで、久秀は夜陰に乗じて逃亡し行方知れずとなった。久秀の本拠地大和においも筒井順慶(三人衆方)の活躍によって久秀方の支配権が脅かされている情況で、久秀の勢力は全く振るわなかった。7月に入ると戦局は山城方面に展開され、久秀方の山城小泉城が陥落して守将の小泉某が大津に逃亡した。同月、足利義栄を推戴して兵庫に上陸した三人衆方の篠原長房(三人衆方)は、久秀方の摂津における数少ない拠点であった越水城を陥れ、三人衆もまた芥川城から上洛して禁裏に酒僎を献ずるなど、洛中支配の固めにかかり、遺憾のない完勝ぶりを示していた。南山城近辺でも淀城・勝龍寺城が相次いで三人衆方に降り、その他の諸城も勢いに抗し得ず潰滅した。8月には池田勝正(三人衆方)が久秀方の伊丹親興所領内を焼き打ちし、畿内における久秀最後の砦や摂津滝山城も落ち、三人衆の畿内制圧がほぼ完了した。(大阪府史参照)             

 

 

尼子、毛利氏に降伏 

 

昨年より開始された毛利元就による富田城総攻撃は、日に月に退城する者が続出し、10月ころには元就が尼子降伏後の処置を考えるほどにその落城が迫っていた。そして11月、遂にその時が来た。尼子義久が使者を毛利氏の陣中に送り「我等は衆命の身代わりに自刃し、城を明け渡したい」と申し入れて来たのである。それに対して元就は、多くの殲滅論を排し、「尼子氏はその名跡を断ってはいけない 自刃などせず安芸に赴いて安穏に余生を送ってもらいたい」と返事したので、義久も感激してその旨を了承し起請文を認めた。元就はまた誓詞を城中に送るとともに酒肴を贈り、籠城中の辛労を慰めて主従決別の宴を許した。義久は吉田円妙寺に送られて幽居されることとなり、最後まで城中に留まった百数十の将兵も思い思いに四散していった。城は元就に引き渡され、十一ヶ国の守護にまで上りつめた尼子氏の歴史が、ここに終わりを告げた。(新修島根県史・邑智町誌参照)

 

 

浦上、美作から毛利勢を撃退 

 

美作の諸勢力が、浦上宗景と毛利元就の双方に分かれて各地で交戦を重ねる中、毛利元就に命ぜられた三村家親が一万余の兵を率いて美作再征に向かい、弓削荘興善寺に本陣を置いた。これから両陣営の大激突が展開される情勢であったが、しかし家親はここで暗殺されるという唐突な結末を迎えることとなった。これより前、家親の美作進撃が噂されていたころ、浦上家臣の宇喜多直家は、いずれ家親の矛先が我が領国備前国内に向けられると考え、津高郡加茂に住む鉄砲の名手後藤兄弟に元親暗殺を命じた。命を受けた後藤兄弟はさっそく夜警を装って興善寺に入り、みごと家親を撃ち取ったのである。家親を失った三村勢はその死を伏せ、敵に気付かれぬよう整然と引き揚げたという。三村勢が退去すると、ここから浦上方の反転攻勢が始まる。浦上氏に命じられた備前曽根城の明石景行が、院庄構城を攻めて毛利方の兵と見られる敵勢を追い出し、更に小田草城を攻めて斎藤実秀を降した。また宇喜多氏が岩屋城城代の芦田正家を調略によって寝返らせ、彼に城主の中村則治を謀殺させて同城を乗っ取らせた。三星城の後藤勝基も浦上方として、これらの軍事行動に関与していたとみて間違いないだろう。家親の死が明らかになると、その機に乗じて民間に隠れていた三浦貞尚や旧臣らが、高田城を占拠していた三村勢を追い落とし城を奪回した。こうして美作は毛利氏の勢力が排除され、その全てが浦上氏の勢力下に入った。(美作町史・新修倉敷市史・落合町史参照)  

 

 

秀吉、美濃墨俣を占領 

 

織田信長は羽柴秀吉に美濃墨俣を攻め取って、そこに城を築くよう羽柴秀吉に命じた。墨俣は木曽川と長良川の合流地点にあり、稲葉山城総攻撃のための拠点となるべき要地であるため、美濃侵略上欠かせぬ場所である。しかしこの敵地に城を築くのは極めて難しく、信長の家臣の誰も実現することができなかった。その難業を秀吉は見事に成し遂げたのである。敵の反攻を防御しながら木曽川上流の犬山あたりから木材その他の資材を流し、日夜突貫工事をして僅か数日で出城を完成させた。これに気付いた斎藤方は兵を繰り出して築城を妨害しようとしたが、攻め落とすことができず遂に織田方の占領するところとなった。いわゆる「墨俣一夜城」である。(新修大津市史・多治見市史参照)

 

 

関東諸氏、北条方に寝返る 

 

2月、上杉謙信は佐竹義昭・里見義堯らの要請を受けて雪中越山し、下総高城胤辰の小金城・原胤貞の臼井城を攻撃した。この攻撃には謙信に従属する関東の国衆のほとんどが動員されており、過ぐる永禄4年(1561)の小田原包囲陣よりも優勢な軍勢が参陣したという、極めて大規模なものであった。やがて小金城が落ち、大激戦の舞台が原氏の拠る臼井城へと移った。それに対して北条方も、原氏の指南を務めていた松田孫太郎の軍勢や、古河公方足利義氏の奉公衆らが原氏に加勢した。上杉勢は臼井城に猛烈な攻撃を加え、夜戦も敢行し、堀一重を残して落城目前というところまで追い込んだ。しかし原・北条連合軍がすさまじい反撃に出たため形勢が逆転、討死に手負いが五千人余も出るほどの犠牲を受けて上杉方の敗北となり、3月、謙信は遂に兵を引き揚げた。これにより関東における謙信の威信は大きく失墜し、こののち年内にかけて上杉方の国衆は、雪崩を打ったように相次いで北条氏康に従属していった。常陸では小田城の小田氏治、上総では土気城の酒井胤治、下総では結城城の結城晴朝・関宿城の梁田持助、下野では祇園城の小山高朝・宇都宮城の宇都宮広綱・栃木城の皆川俊宗、上野では金山城の由良成繁・厩橋城の北条高広、武蔵では忍城の成田長泰・深谷城の上杉憲盛が謙信から離反し、氏康に従属した。(東金市史・勝浦市史参照)    

 

                                                                                                信玄、西上野を制圧 

 

この関東情勢の激変は、上野における武田勢の戦線にも多大な影響を与えた。特に厩橋城の北条(キタジョウ)高広の離反は上野の上杉陣営に決定的な打撃を与えた。それは上杉謙信の春日山ー沼田ー厩橋という防衛ラインの最前線拠点を失ったからである。その影響を受けて箕輪城の長野業政が完全に孤立した。長野氏は最後の時が迫ったことを悟ると、持仏堂に入って「春風に 梅も桜も散り果てて 名にそ残れる三輪の郷から」という辞世の一首を書き残してから念仏を三遍唱えて自害した。家臣たちもその後を追って自害した。ここに永禄6年(1563)以降続いた箕輪城攻撃が、この永禄9年(1566)9月に同城の落城を以って終焉を迎えたのである。その後、翌年3月には白井城の長尾憲景が、4月には総社城の長尾顕景が降伏し、ここに信玄は五年の歳月を経て利根川以西の西上野を完全に制圧した。(群馬県史・安中市史参照)    

 

 

能登守護畠山、温井氏ら重臣に追放される 

 

このころ能登では守護権力が低下し、代わって温井紹春・遊佐続光・長続連らの重臣たちが影響力を振るう時代となっていた。これを憂えた守護畠山義綱は自らの復権を目指し、奉行人を編成して重臣たちを押さえようとした。ところがその動きを知った重臣たちが反発し、義綱を七尾城から追放して義綱の嫡男義慶を新守護に擁立した。新守護といっても権力のない傀儡である。実際の権力は重臣たちが握っており、彼らの合議制によって政治が運営されるようになっていたのである。追放された義綱は、9月の肌寒い夕暮れの中を三十人ばかりの武士と共に数隻の小船に分乗し、七尾湾を海路越中へと漕ぎ出して行った。一行が越中岩瀬に着くと、そこから海路敦賀湊に向かい、「七里半越え」で近江海津を経て琵琶湖の対岸坂本に辿り着いた。その後は越後に渡って上杉謙信に能登帰国の先ごろまで領国に専権を振った義綱の没落は戦国争乱に棲む大名のもつ宿命であったともいえる。(七尾市史・羽咋市史参照)

 

 

 

1567 永禄10年

 信長、北伊勢に侵攻 

 

東美濃を制圧した織田信長は、今後の美濃平定を視野に入れながら、ひとまず南に目を向け、滝川一益に伊勢侵攻を命じた。美濃侵攻時に背後の安全を確保するためである。命を受けた一益は8月、養老山脈の東側を南下し、多度から桑名郡になだれ込んだ。このとき員弁・朝明・三重郡の多くの諸将が一益の幕下になったため、一益はこの機を逃さず信長の出陣を促した。それを受けた信長は直ちに出動、桑名郡に入り、抵抗している集落に放火して焼き払いつつ桑名に到達し、ここに本陣を置いた。その兵火は遠く大高城あたりからも望見されたという。この放火作戦は敵を恐怖に陥れる信長の常套戦術であった。結果、諸城の武士はこれに肝を冷やし、三重郡までの大部分の諸将が皆風を望んで信長に降った。その後も信長は南下を続けて楠城を攻め落とし、更に高岡城に向かった。破竹の勢いで野を行くが如く進攻してきた信長も、この高岡城で進軍の歩が止まった。城将の山路弾正がよく守ったので落とすことができなかったのである。しかも攻め倦んでいるうちに美濃で不穏な動きがあるとの報が来たため、信長は岐阜への撤退を余儀なくされ、城攻めは翌年に持ち越されることとなった。(大安町史参照)                                                         

 

信長、美濃を平定 

 

織田信長が美濃平定のための策を労していたころ、これまで種を蒔いてきた懐柔策がようやく功を奏しつつあった。美濃の当主斎藤龍興と老臣稲葉良通・氏家友国・安東守就の、いわゆる美濃三人衆との間に軋轢が起こり、三人衆が信長に内通するに至ったのである。まさしく待ちに待った内部崩壊であった。このチャンスを逃さず9月、信長は瑞龍山に駆け登って峰続きの稲葉山城に押し寄せた。同城では「何事だ、敵か味方か」とうろたえている内に、はや町々に火の手が上がり、城は裸城に晒され、龍興は支えることができず落ちていった。こうして稲葉山城はいとも簡単に落城し、斉藤家も滅びて美濃が信長の手に平定された。(新修大津市史・土岐市史参照)  

                                                                                 

 

信長、天下布武の印章を用い始める 

 

美濃を掌握した織田信長は居城を小牧山から稲葉山城に移し、城のある井口を改めて岐阜と唱えることとした。「周の文王が岐山より起り 天下を定む」という中国の故事にちなんで名付けたと伝えらる。また信長はこれより「天下布武」という印章をもちい始めた。天下を武を以って治めるという彼の抱負を象徴したものである。彼はこのとき天下統一を自らの目標としたのである。(岐阜市史・清須町史参照) 

 

 

三好方分裂 当主の義継が松永方に奔る 

 

三好三人衆が足利義栄の将軍就任に向けて準備していたころ、思わぬところからその計画に障害が発生し、義栄の就任が当分引き伸ばされることになった。その障害とは、三好義継が三人衆から離反して、あろうことか仇敵の松永久秀側に就いたことである。義継は三好家の当主でありながら、若年という理由で政務・軍事の権限はすべて三人衆に握られていた。彼は自分が体のよいロボットにすぎないことが判明してくるにつれて、心穏やかならぬものがあったに違いない。まして三人衆が京都で庶政を裁決し、畿内に号令をかける形勢となるに及んで、彼の焦慮はいやがうえにも昂まったと考えられる。かく理由によって2月、義継は高屋城を脱出して和泉堺に走り、久秀の許に投じたのである。高屋城主の三好康長(長慶の叔父)も同時に松永方に帰参したらしい。これによって畿内における松永方の勢力が息を吹き返し、小康を保っていた畿内にまたも動乱の風が吹き始めた。(大阪府史参照)

 

 

松永、三好三人衆と大和で激突 

 

4月、松永久秀は三好義継を擁して和泉堺より信貴山城に入り、更に多聞山城に移った。このような動きに対して三好三人衆は、筒井順慶と共に久秀を攻めようと一万余の軍勢で奈良の近辺に陣を取り、天満山・大乗院山・東大寺などで久秀の軍勢と戦った。その折、興福寺の塔や南大門に上って鉄砲を放つので、さながら雷電のような昼夜を分かたぬ合戦の巷になったという。10月、久秀は敵の包囲陣を破るため、三人衆の陣した東大寺大仏殿を焼き討ちにする挙に出た。穀屋から法花堂、更に廻廊に放火したので、たちまち大仏殿も猛火に包まれ大仏の首が焼け落ちた。思わぬ攻撃に不意を突かれた三人衆方は、二千三百人を討たれて大敗した。この後も両軍一進一退の攻防を続けるが、翌年には織田信長の登場によって事態が一変する。(奈良県史・大和郡山市史・新修神戸市史参照)   

 

 

義昭、越前朝倉氏を頼る 

 

足利義昭は長い逃避行の末にやっと越前一乗谷に辿り着いた。遡ること永禄8年(1565)、細川藤孝に援けられた足利義昭は近江に逃走し、甲賀郡油日を経て野洲郡矢島に移った。この地で義昭は放浪の身ながらも再起の機会を窺い、織田信長・上杉謙信・武田信玄などに御内書を送って出兵を求めた。やがて三好三人衆が矢島に攻めて来ると聞き及び、永禄9年(1566)7月、義昭は若狭守護である武田義統に望みをかけて小浜に入った。しかし若狭は義統・元明父子が両派に分かれて抗争していたため、武田氏も頼むに足らずと見てとった義昭は、更に越前の朝倉義景の援助を求めようと11月、金ケ崎に入った。ところが朝倉氏もまた、坂井郡の国人堀江氏が加賀一向一揆の後援を得て反乱を起こしていたので足止めを受けた。しかしその反乱もこの永禄10年(1567)に治まり、義昭はようやく義景によって11月、一乗谷安養寺に迎えられた。(福井県史参照)

 

 

毛利、筑前・肥前東部を支配 

 

北九州が再び戦乱の舞台となった。発端は大友方の有力武将である岩屋城の高橋鑑種が、毛利元就に通じて大友宗麟に反旗を翻したことであった。原因は鑑種の兄鑑相が謀反の疑いで宗麟に殺され、しかも兄の妻を宗麟に奪われたことに恨みを持ったこととされている。宗麟はこの事態を大いに怒り、重臣の戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理ら「三老」を鎮圧に向かわせた。「三老」の活躍で岩屋城は落ちたが、鑑種は近くの要害堅固な宝満城に籠もって抵抗を続けた。この間に秋月種実も古処山城に拠って宗麟に背き、これに連動して五箇山城の筑紫広門・許斐山城の宗像氏貞・佐賀城の龍造寺隆信らも反旗を翻して毛利方となった。後に明らかとなるが、立花城の立花鑑載や高祖城の原田親種らもこのころ毛利方に寝返り、元就に救援を請うている。この間、元就は表立った動きは見せていないが、秋月氏と毛利隆元(元就の長男)が兄弟の契約を結んでいることから見て、秋月氏はこの騒動の陰の主役であったと思われる。かくして「豊芸講和」は四年で破れ、以後北九州で大友・毛利の合戦が展開される。(北九州市史・大分県史・佐賀県史参照)      

 

 

明禅寺崩れ 三村、宇喜多勢に大敗 

 

三村家の跡を継いだ元親は、父の仇を討つべく宇喜多直家の討伐に乗り出した。対する直家もこの日のあることを予測し、永禄9年(1566)秋から上道郡沢田村の明禅寺山に塁を築いて防衛を固めていた。元親が動き出したのは翌永禄10年の春、直家が油断している風雨の激しい夜であった。明禅寺城はたやすく元親の手に落ち、百五十余人を同城に入れてこれを守らせた。一方、直家は生来の策略家である。彼はここで元親を一気に壊滅させようと謀略を巡らした。岡山城の金光宗高・船山城の須々木豊前らに利を以って内通させ、特に金光氏には元親を誘き出す役を課した。さっそく金光氏は実行に移し、元親に「明禅寺城に宇喜多軍が攻めて来るから、そのとき城内と示し合わせて挟み撃ちにすれば勝利疑いなし」と申し送った。元親はこれぞ天の与えた弔い合戦の好機、不倶戴天の敵直家を討ち取り、勢いに乗じて備前一国を攻略せんと二万余の軍勢を率いて明禅寺城に向かった。元親はまんまと直家の罠にはまったのである。直家は五千騎を率いて操山上に陣を張り、北麓を進む三村勢を待ち受けて鉄砲を撃ちかけ、一斉に攻撃した。この一戦で三村勢が壊滅的な打撃を受けた。それでもなお元親は決戦を挑もうと直家の本陣を突いたが失敗し、わずか四千人になった兵と共に本拠地松山城に逃げ帰った。世にこれを「明禅寺崩れ」という。これによって三村と宇喜多の力のバランスが逆転し、三村家崩壊の道を突き進んでいく。(高梁市史参照)   

 

 

北条、里見に大敗し上総から撤退 

 

このころ里見義堯は勢力を盛り返して久留里城と佐貫城を占領し、更に北上する勢いを示していた。それを危惧した北条氏康は、上杉謙信が越後に帰っているこの機会に里見氏の拠点佐貫城を攻略しようと上総に兵を送り、秘かに三船山に砦を築こうとした。ところがこの北条方の作戦は里見方に読まれていた。里見勢の不意打ちを受け、北条勢の一隊五十二名が三船山の城外で勇敢に戦うも、武運拙く全員討死を遂げたのである。里見方の完勝であった「三船山合戦」。これで里見氏は第二次国府台合戦の屈辱を晴らしたことになる。氏康はこの手痛い敗北で佐貫城の奪取が成らなかったばかりか、佐貫城が完全に里見氏の属城となった。のみならず合戦後、勝浦正木時忠や東金酒井胤敏といった北条方に与していた房総諸氏さえも、その大半が一転して里見氏に服属してしまった。結果、上総より全面撤退のやむなきに至った北条勢は、これまで長年に渡って築き上げてきた房総攻略の成果をほとんど失うはめに陥った。しかしこの痛手は幸か不幸か、氏康の次なる政治決断を促すことになった。それは上杉・北条同盟の模索である。(東金市史・千葉県の歴史参照)

 

 

武田・今川・北条の三国同盟が崩壊 

 

西上野の制圧を終えた武田信玄が、次に計画したのは駿河への南進策であった。今まで進めてきた北進策は五次に及ぶ川中島の合戦でその難しさを悟ったこと、また今川義元が死んでからは今川家の弱体化が進んできていたこと、などが駿河に目を向けさせた理由であった。尤も、この軌道修正は大きな犠牲を伴った。具体的にいえば信玄が嫡子義信を死に追い込んだことである。義信の妻が義元の娘であったことから、義信は今川氏との断交に反対していた。義信が幽閉されたのが永禄8年(1565)9月、そのわずか二ヶ月後には織田信長が信玄に誼を通じ、自分の姪を養女として信玄の四男勝頼に嫁がせている。信玄は信長との遠交近攻政策を視野に入れた上で、この永禄10年(1567)10月、義信を自害させ、妻も今川家に送り返したのである。ここに武田・今川両氏は断交となり、同時に天文23年(1555)以来十三年続いた武田・今川・北条の三国同盟が崩壊した。(掛川市史参照)

ご意見・ご感想がありましたらお寄せください