豊徳編   天下統一・天下泰平

明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家で主導権を握り、その九年後には奥州一揆を平定して天下統一を成し遂げた。天才ならではの電撃的スピードである。その秀吉がなぜ天下泰平にまで繋がらなかったか。その最大の理由は秀吉は、領土・恩賞を与えることこそ武将を束ねる最良の政策と考えていたことであろう。恩賞を確保するため朝鮮・中国出兵を企てたところに秀吉の為政者としての限界があった。一方、家康は儒教を以って忠孝を説き、道徳によって組織の求心力を高めようとした。ここが秀吉との決定的な違いであり、家康をして天下泰平を実現させた最大の理由である。平和とは何かを考え抜いた家康の方が、為政者としては一枚上手だったのである。第四章はその天下統一を成し遂げようとする秀吉と、そこから更に天下泰平を託された家康の、英傑二人を主軸とする戦国完結編である。

 

 

 

織田信長 豊臣秀吉 徳川家康

北条早雲 武田信玄 上杉謙信


8豊臣政権

 

 

 

1583 天正11年

賤ヶ岳の合戦 秀吉、柴田氏と激突

 

羽柴秀吉は北陸が雪で閉じ込められている間に、柴田勝家方の連合軍を叩く計画を着実に進めていた。例えば昨年のうちに長浜城の柴田勝豊(勝家の養子)や、岐阜城の織田信孝(信長の三男)を降伏させたのがその例である。今年に入ると伊勢の滝川一益に鉾先を向け、2月には亀山城・国府城を降し、更に関城に攻め込んだ。その関城を攻めている最中、待ちに待った報が飛び込んできた。勝家が雪解けまで待ちえず、役夫に道路の除雪をさせながら柳ケ瀬まで進んで来たのである。秀吉は滝川討伐を織田信雄に委ねて直ちに近江に戻り、あらかじめ余呉湖周辺に配置しておいた羽柴秀長(秀吉の弟)らと合流した。しばらくの間は両軍の睨み合いが続いたが、4月になって信孝が岐阜城に挙兵したとの報が秀吉の許に届いた。さっそく秀吉は信孝討伐のために大軍を率いて岐阜に向かった。すると秀吉の戦線離脱を知った勝家の臣佐久間盛政が、秀吉方の前線基地である大岩山砦を奇襲し、壮絶な白兵戦を繰り広げた。実はこれは秀吉にとって予想された事態であった。勝家が秀吉の筋書き通りまんまと懐深くに入り込んでくれたのである。これより秀吉によって仕組まれた天下分け目の大勝負、世に名高い「賤ヶ岳の合戦」が始まる。(関ヶ原町史・長浜市史参照)

 

秀吉、柴田氏を倒す 北陸・北伊勢を制圧 

いよいよ織田軍団の主導権を賭けた戦いが始まる。佐久間盛政が大岩山に侵入してきたという報が羽柴秀吉の許に届いたのは4月20日正午ごろ、大垣にて作戦会議をしていたときであった。さっそく秀吉は全軍に退転の通達を出し、午後2時には一万五千の兵が一斉に北近江を目指して進軍、その日の夜9時ごろには木之本に到着した。大垣から木之本までの約54kmの道程を5時間余りで駆け抜けるという迅速さであった。俗にいう「秀吉の大返し」である。木之本へ戻るに際して、秀吉は周辺の村々に米や馬餌を用意するよう触れを出したという。佐久間氏は秀吉の軍勢が大垣から駆け付けるには、どんなに早くても丸1日はかかるものと悠長に考えていたが、実際に佐久間氏が目にしたのは度肝を抜く光景であった。その日の夜、美濃街道を松明を点けて行進する大軍を見付け、偵察すると秀吉の軍勢であることが判明したのである。佐久間氏はこの思いもよらぬ電光石火の来援に唖然とし、戦う意欲を失って周章狼狽した。秀吉は将兵を休息させたあと、21日早朝から賤ケ岳に総攻撃を掛けた。すると佐久間隊はひとたまりもなく潰走し、退却の一途を辿るのみとなった。そのとき佐久間隊の後方に陣していた前田利家が突如戦線を離脱した。この状況は本陣の柴田勝家からは佐久間隊の敗走と見られ、それにつられて勝家の諸将が次々と撤退を始めた。やむなく勝家も近臣百名と共に北国街道を敗走し、居城の北庄城に辿り着いて籠城した。これを追撃した秀吉軍が城中に突入すると、勝家は奮闘の末に天守において自刃し、北庄城は炎に包まれて落城した「賤ケ岳の合戦」。勝家を滅ぼした秀吉はすぐさま美濃に向かい、織田信孝の岐阜城を囲んだ。織田信雄の兵もこれに加わったので、信孝は為すすべもなく城を捨てて知多郡内海に逃走し、ここで信雄によって自殺させられた。勝家死すの報を聞いた滝川一益もまた秀吉に降伏し、北伊勢における所領の全てを明け渡した。ここに越前・加賀・能登・北伊勢が秀吉によって平定されたのである。結果、秀吉は名実共に信長の後継者としての地位を獲得し、道半ばで挫折した信長の天下統一の夢が、秀吉によって大きく現実的なもとなった。(関ヶ原町史・長浜市史参照)                                    

 

秀吉、美濃を制圧 

美濃の攻略は賤ケ岳の合戦に並行して進められ、合戦の勝利とともにその平定が実現した。その背景には東濃・中濃における森長可の活躍があった。まずは東濃について、本能寺の変の後、北信から兼山城に逃げ帰った長可は、いったんは織田信孝に服していたが、その後、羽柴秀吉に鞍替えして岩村城・米田城・加治田城・蜂屋城・上有知城・久々利城・高山城・妻木城など東濃の大部分を攻略した。残る信孝方の城は土岐郡の小里城・恵那郡の苗木城だけとなっていたが、賤ケ岳の合戦で秀吉が勝利し、信孝が降伏してからは両城の城主が逃亡したため、城は長可の許に統合され、東濃の全てが秀吉の掌握するところとなった。次に中濃について、当時、中濃を支配していたのは信孝方の遠藤慶隆である。その遠藤氏を討伐するよう秀吉に命じられていた長可は、遠藤氏が籠もる立花山城を包囲した。遠藤氏は信孝に救援を求めたが、秀吉との対戦に忙殺されて援軍来たらず、もはや死を決して敵陣を突破する他ない程の窮地に陥った。ちょうどそのころ賤ケ岳の合戦に決着がつき、秀吉方から「信孝が降伏したので直ちに城を明け渡すように」との勧告が遠藤氏の許に伝えられた。既に抵抗する力を失っていた遠藤氏は長可に人質を送って降伏した。ために中濃もまた秀吉の掌握するところとなった。こうして東濃・中濃が平定され、美濃全土が秀吉の支配下に入ったのである。(恵那市史・白川町誌参照) 

         

 

上杉、秀吉に臣従 

羽柴秀吉は昨年から上杉景勝に提携を申し入れていたが、この年1月になってようやく承諾の返事が届いた。秀吉はこれを喜び、さっそく景勝に柴田方の佐々成政を背後から脅かすよう越中への侵攻を要請し、勝利の暁には能登・越中を景勝に与えることを約束した。景勝は謙信時代の領土を回復できるとあって、この約束を喜び、秀吉への全面協力をする手筈を整えた。しかし景勝はこの好餌を掴むことができなかった。そのころ関東方面での北条氏政の策動や北信濃への徳川家康の北上などがあり、これらの動きを封ずるのが精一杯で、景勝は越中へ出馬する余裕がなかったのである。結局、景勝は秀吉の要求を何一つ実行できぬまま、合戦が秀吉の勝利で終わった。当然のことながら秀吉の怒りを買った。秀吉は景勝に対してその違約を責め、越中・能登を与える約束を取り消し、かつ景勝に人質の提出を求めた。景勝はこれを神妙に受け止めて自分の養子を人質に送ることにした。それは景勝が秀吉に臣従したことを意味し、これより越後が秀吉の支配するところとなった。(新潟県史参照)

 

秀吉、越中を制圧 

賤ケ岳の合戦が始まる二ヶ月前、越中では佐々成政が柴田勝家に味方して越中東部の上杉領に侵入し、魚津城を攻撃した。城主の須田満親は上杉景勝に援軍を要請したが、雪のためか、北条・徳川の動向を警戒してか、景勝は遂に来なかった。その結果、魚津城は二の丸が落とされ、須田氏は力尽きて降伏した。それに連動して小出城・弓庄城・城尾城の城主たちも越後に退却したため、越中全土が成政の手に落ちた。さて、勝家滅亡の報が届いたのはその後である。成政は秀吉の圧倒的な兵力の前に戦うことなくあっさり降伏し、統一したばかりの越中をそっくり秀吉に差し出したため、ここに越中が一挙に秀吉のものとなった。尚、降伏した成政は領土を没収されると思いきや、逆に秀吉から越中一国を与えられ、のみならず越後と飛騨両国への「取次」役を任じられた。(富山市史・氷見市史参照)

 

三木、飛騨を平定 

織田信長が倒れて以後、飛騨の地は一時的な野放し状態となった。その間の三木自綱の動きは激しい。自綱は昨年10月に姉小路氏と共同して宿敵の江馬輝盛を破った。この年の1月には弟の顕綱を殺してその跡に三男季綱を入れると、同月、広瀬城の広瀬宗域と共に小鷹利城の牛丸綱親を討った。9月にはその広瀬氏をも殺して広瀬城を乗っ取った。なんと自綱は短時日のうちに飛騨を平定してしまったのである。そのころ羽柴秀吉は旧織田政権の領土を自己の勢力下に置くべく奮闘しており、徳川家康もまた旧武田領の信濃・甲斐を自己勢力下に収めようと血眼になっていた。飛騨は束の間、秀吉・家康という二大勢力・二つの嵐の狭間にできたエアーポケットになっていたのだ。このような野放し状態の中で自綱は飛騨を統一したのだが、しかし飛騨が飛騨人自身の手によって統治される時代は、もはや存在しない。歴史の大きなうねりは、やがてこの小さな山国をも飲み込み、押し流されて行く。(飛騨下呂通史参照)

 

島津、島原に上陸 

日野江城の有馬晴信は、今こそ龍造寺氏に対する宿縁の恨みを晴らさんとして、島津義久に援軍を要請した。要請を受けた義久は弟家久に有馬氏の救援を命じ、11月、島原半島に上陸させた。これを出迎えた有馬氏は島津勢を日野江城に迎え入れた。するとこれに呼応して安徳純俊が龍造寺氏を裏切り、安徳城に島津軍を引き入れた。ために両面から挟撃される形となった深江城の安徳純泰は龍造寺隆信に援軍を要請、隆信は筑後・三根・藤津・彼杵の諸将を派して深江城を守らせた。かかる経過の中、龍造寺方の秋月種実が義久との和平を斡旋していた。両者が共に豊後大友宗麟を討つべしという主旨に基づく行動であった。和平の条件は、有馬表にいる島津氏の警衛士卒を速やかに撤退させること、肥後の領有権を菊池川より西北は龍造寺氏、東南は島津氏とすること、などである。義久はこれを承諾し、島原半島から兵を引いて有馬氏への援助を一時中断することになった。(国見町郷土誌・大分県史参照)  

 

最上、庄内・由利地方を支配 

武藤義氏は戦国大名化を急ぐあまり、庄内の領国化が未熟なまま最上領・由利領・安東領へと武力進出した。そこに彼の悲劇があった。3月、重臣前森蔵人の謀反によって尾浦城が不意に襲われ、義氏はあっけなく自刃してしまったのである。のみならずその直後に「庄内一統」による一斉蜂起があり、それには三十ヶ所に在城している義氏の一族衆たちの全てが加勢したのであった。おそらく義氏のあまりにも性急な大名領国化に反抗したのであろう。実はこの一揆を煽動したのは、ほかならぬ最上義光である。前森氏が事前に義光と通じていたことはいうまでもない。その他、飽海郡砂越城の砂越氏・観音寺城の木次氏らも、このときすでに義氏を打倒すべく共同作戦の密談が交わされていた。義氏の北進に手を焼いていた秋田の安東愛季もまた、義光に結託を申し入れて密なる連絡を取り合っていた。つまり庄内撹乱の陰謀が彼らによって秘かに巡らされていたのである。義氏横死後も武藤氏からの離反が相次ぎ、武藤氏の一族でさえ、次々と雪崩現象を起こして義光の勢力下に置かれていった。また武藤氏の支配下にあった由利十二党も、このときを以って義光の制約下に入ることになった。ここに武藤氏の領国支配は崩壊し、義光が庄内・飽海・由利の西海岸地域における事実上の支配者となった。尚、義氏の後継者には藤島にいた義氏の舎弟義興が擁立されて尾浦城主となり、義氏打倒の最大の功労者である前森氏は、東禅寺城が与えられて東禅寺氏を名乗ることになった。もちろん義光の承認に基づいてのことである。(山形市史・村上市史・秋田県史参照)

 

 

 

1584 天正12年

家康、織田信雄らと連合し秀吉と対戦 

 

3月、織田信雄(信長の次男)は、彼の家臣である津川・岡田・浅井の三老臣が秀吉に誼を通じたという理由で、その三人を長島城に誅殺した。この出来事以来、これまで一緒に戦ってきた信雄と羽柴秀吉の間に仲違いが生じ、両者対決へと発展していった。信雄は我こそ織田信長の後継者として自任していたが、今や秀吉が実質的な後継者の位置に立って、自分の上位者になったことに不安を抱くようになっていたのである。かくして秀吉と対決する意思を持った信雄は、徳川家康に援助を求め、彼と共に共同戦線を張ることの約束を取り付けた。家康の方も信長の旧好を重んじ、主従の義理を正すためという大義名分を掲げて信雄に味方することにした。戦闘は信雄が亀山城を攻撃することから始まったが、秀吉方の反撃を受けて信雄方の峯城を落とされ、かえって秀吉勢の北伊勢侵攻を許すことになった。更に追い討ちをかけるように、手薄となっていた犬山城が木曽川を越えて急襲してきた秀吉方の池田恒興・森長可ら美濃勢に占拠されてしまった。この動きに危機を感じた家康は、信雄と清洲城で会見して戦略を練った。結果、伊勢は信雄に任せ、家康は小牧山を拠点に犬山城の池田勢に対処することにした。家康にとってこの戦いは、表向きは信雄の応援であるが、実質は家康の天下を賭けた戦いである。そう考えた家康は、長期戦を見越して連合軍を結集すべく各所に急使を飛ばした。それは四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀・根来ら紀伊衆、関東の北条氏政、北陸の佐々成政・三木自綱らである。彼らに連合参加を促す一方で、家康は秀吉方を討つべく小牧へ向かった。これより世に名高い「小牧・長久手の戦い」が始まる。(名古屋市史参照)

 

 

小牧・長久手の戦い 家康が秀吉に勝利  

 

犬山に尾張侵入の橋頭保が築かれたのを喜んだ羽柴秀吉は3月、大坂を発して犬山城に入り、更に軍を進めて楽田城を本陣とした。ここで軍議が開かれ、密かに三河に入って岡崎の後方を攪乱する三河中入作戦が計画された。その部隊は三好秀次(秀吉の甥)を総大将に、池田恒興・森長可・堀秀政の四陣から成る二万の軍勢で編成され、4月、篠木・柏井を経て長久手方面に進出した。一方、逸早く小牧山を占拠していた徳川家康は、秀吉方のこの動きを知り、4月8日、主力を率いてこれを追跡、その夜に小幡城で待機した。翌日早朝、白山林に駐屯していた後陣の三好軍を急襲した。油断していた秀次は背後から迫って来る徳川軍に全く気付かず、隙をつかれ総崩れとなって命からがら逃走した。遅れて仏ケ根まで引き返してきた先陣の池田・森両軍もまた、家康軍の総攻撃をあびる結果となり、大将の池田・森の両氏が戦死するという大敗北を喫した。戦闘は9日昼過ぎには決着がつき、秀吉が救援に駆け付けてきた時には、家康は既に小幡城に引き揚げていた。ならばと秀吉が更に小幡城に向かうと、今度は家康は小牧に引き揚げるなど、秀吉を散々に翻弄した「小牧・長久手の戦い」。これは家康が正面から秀吉に戦いを挑んで勝利した唯一無二の戦いである。この事実は武将たちの家康に対する畏敬の念を定着させ、天下人への複線を生み出す重大な出来事となった。秀吉はこのまま時を過ごせば形勢不利になると見て尾張から撤退し、美濃・伊勢方面への攻撃に方針を変えた。(名古屋市史・清洲町史参照)   

 

 

家康、長宗我部・紀伊衆と連合  長宗我部、讃岐を制圧 

 

徳川家康は羽柴秀吉との対抗上、長宗我部元親や根来・雑賀ら紀伊衆と連合を組み、それぞれに指令を発した。元親へは、秀吉を牽制すべく即刻海を渡って攝津・播磨方面へ出兵することを求めた。元親は今、秀吉と対戦中であったので、家康との連合は願ってもないことであったが、未だ四国統一が完成しておらず、讃岐には三好という敵がいたため、直ちに海を渡って兵を送ることはできなかった。それでも元親は家康の要請に応えるべく、四国制覇のピッチを上げようと讃岐へ進軍し、全力をあげて十河城・雨滝城・虎丸城に攻めかかった。幸いにも秀吉は家康との対戦に忙殺されていたため、兵の増強がないうちに三好勢を壊滅させることができた。讃岐の平定を終え、急ぎ家康の期待に応えるために、弟の親泰を大坂に向けて渡海させる手はずを整えたが、時すでに遅く、小牧・長久手の戦いが終局を迎えていた。元親は家康の要望を何一つ実行することができないまま出兵の機会を失ったのである。一方、根来・雑賀ら紀伊衆は家康からの要請で、秀吉が留守にした大坂城を攻めて後方撹乱しようと和泉に侵入したが、岸和田城の秀吉方諸将らによって阻まれ、これもまた失敗に終わった。このように元親・紀伊衆らは家康と連合を組みながらも、諸戦で充分な機能を発揮できずに戦いが終わったのである。(高知県史・大内町史参照)

 

 

家康、佐々・三木氏と連合 

 

徳川家康の伝令は北陸へも走った。これを受けた越中の佐々成政は反秀吉の立場を明らかにし、また飛騨の三木自綱も成政に追随する形で両者とも連合に参加した。成政は秀吉と戦って敗れた経緯があったため、秘かに反撃の機を狙っていたのである。さっそく成政は秀吉方の前田利家を油断させるために詐略を案じ、利家の子利政を女婿に乞うて跡を譲りたいと申し込んだ。利家は喜んでこれを容れ、めでたく結納式まで行われた。だがこの詐略が発覚したので利家は大いに怒り、成政への戦闘態勢に入った。8月、前哨戦は成政が利家方の朝日山を攻撃するところから始まったが、結果は利家の救援軍によって成政が敗退した。成政は再び陣を立て直し、今度は大挙して末森城に攻撃を掛けた。末森城は加賀と能登を結ぶ地にあり、ここを占拠すれば利家方の勢力を分断できるという要地でもある。しかしこの動きはすぐに利家に知られ、即座に末森城の防衛線を張られたので、準備不足の佐々勢はあえなく富山へ向けて兵を引き揚げることになった。敗退した成政を取り巻く状況は深刻であった。東は上杉氏、西は前田氏という、両面とも秀吉方の武将に挟まれる形となったのである。この挟撃状態から抜け出る道は徳川家康の支援を頼るしかない。矢も楯も無く成政は家康の居る浜松へ向けて出立した。そのころ秀吉と家康が和睦に向けて交渉していたことを成政は知る由もない。厳冬の立山を越え「ザラザラ越え」、浜松に辿り着いた12月25日には既に和睦が成立した後であった。成政は空しく越中へ引き返した。一方、飛騨の三木氏はこの間、手を拱いて見ていただけであった。世情に疎い三木氏は、ただ成政に追随したというだけで転落の道を辿ることになる。秀吉・家康という二大勢力の駆け引きの中で、佐々氏と三木氏は切り捨てられたのである。(富山市史・高岡市史参照) 

 

 

家康、北条氏と連合 

 

徳川家康は北条氏直(氏政の子)にも連合への参加を働きかけた。しかし氏直はそれに難色を示した。天正10年に取り交わされた和議の条件が未だ実現していないので、それをちゃんと実行するようにと、逆に家康に要求されたのである。和議の条件とは、北条氏が領有していた信濃の佐久・諏訪両郡は徳川氏に譲渡し、徳川方の真田昌幸が領有していた上野の吾妻・沼田二郡は北条氏に譲渡する、という「国分け」協定であった。ところが昌幸はこれを承服せず、吾妻・沼田二郡の譲渡を拒み続けていた。氏直からの要求を受けた家康は、秀吉との対決を目前にしていただけに、なんとしてもこれを実現しようと、あらためて昌幸に二郡を手放すよう命じた。しかし昌幸はそれをきっぱりと拒絶し、のみならず家康を離れて上杉景勝への接近を図った。家康は氏直への誠意を示すため真田討伐に向かったが、背後に羽柴秀吉の脅威を感じて引き返してしまった。かくして和議の条件は実現されないまま終わったが、しかし両者間の連合は成立した。氏直にとっても家康との連合を強く望んでいたからである。当時、氏直の強敵は北に上杉氏、東に佐竹氏、南に里見氏があった。上杉氏は既に秀吉の傘下に入り、佐竹・里見氏もまた共に秀吉方への意志が固まりつつあったので、氏直は何としても家康を味方に付けておく必要があったのだ。真田問題を棚置きしたまま、徳川・北条の両氏は共通の利害をもって連合が組まれたのである。(長野県史参照)   

 

 

秀吉、家康と和睦 

 

小牧・長久手の敗戦により、徳川家康との決戦を諦めた羽柴秀吉は5月、犬山城・楽田城等に押さえの軍勢を残して犬山を去り、今度は手薄となっていた織田信雄領の西部に攻撃の鉾先を向けた。6月、まずは戦線を尾張の国境に移して加賀野井城・奥城・竹鼻城を陥落させた。また伊勢方面にも転戦し、神戸城・安濃津城・松ケ島城を落として戸木城を除く南伊勢のほぼ全域を占領、更に北伊勢へと移っていった。また一方で秀吉は九鬼水軍に蟹江城を占領させ、信雄の本拠地長島を南北から挟撃する体制をとった。この迅速な秀吉の戦術に驚いた家康は再び反撃を開始し、7月、下市場城・前田城・蟹江城を奪回して北伊勢の防衛を固めた。それでも秀吉は進撃の手を緩めることなく11月、浜田城・羽津城・縄生城・桑名城へと陣を進めて信雄の拠点長島城に迫った。これらの秀吉の行動には一つの大きな意図があった。それは信雄を脅して彼との講和を引き出すことである。果たして信雄はこの脅しに負けた。両者は桑名に会して正式に講和が成立し、互いに兵を納めたのである。家康はただこれを傍観するより他なく、孤立化を恐れて浜松城に帰った。信雄の離脱で大義名分を失った家康は、もはや秀吉に単独で対抗できる力はない。秀吉の戦略的な勝利であった。その勝利を見定めた秀吉は家康とも講和を成立させ、秀吉優位の中、十ヶ月に渡る戦いに終止符が打たれた。(名古屋市史参照)                            

 

 

毛利、秀吉に臣属 

 

小牧・長久手の戦いが終わって戦乱に終止符がうたれた今、羽柴秀吉と毛利輝元との間にある国境確定の交渉が再開されることになった。これまで秀吉は輝元に対し、天正10年の高松城講和条件に基づいて、備中高梁川以東と伯耆八橋川以東を差し出すよう要求していたが、輝元はその実行を渋っていた。そこで秀吉は輝元が決断し易くなるように事前に手を打った。秀吉の猶子秀勝(織田信長四男)と輝元の娘とを縁組させて姻戚関係を築き、更に輝元が強く望んでいた備中の上房・阿賀二郡と伯耆八橋城の領有を認めるなどの譲歩の姿勢を示したのである。毛利側としても強大な権力を持つに至った秀吉に従わざるを得ない状況になっていた。やむなく輝元は秀吉の思惑通り、美作および八橋城を除く伯耆の東三郡を秀吉に譲渡し、兵を撤退させた。ここに領土問題が決着し、晴れて輝元は秀吉に臣下の礼をとったのである。尚、美作及び備中の都宇・窪屋・賀陽三郡は宇喜多直家に与えられた。(山手村史・高梁市史参照)

 

 

長宗我部、南伊予を制圧 

 

讃岐を平定し終えた長宗我部元親は久武親信を南伊予に向かわせた。親信は天正7年に南予三間の岡本城の戦いで戦死した久武親直の弟である。親信にとってこの出陣は兄の弔い合戦という意味合いもあった。久武氏が南伊予に入ると、まずは手近の深田城を攻撃し、更に軍隊を分けて岡本城・土居城を攻撃した。深田城は兵糧攻めで外部との連絡を遮断したため、士気沮喪して降伏した。岡本城は寄手の猛攻に支えきれず、先に降っていた深田城主の斡旋で降伏した。土居城は寄手が少人数の小姓組であったこともあって落とせなかった。この間、南伊予勢の主君である西園寺公広が加勢を送って来ることもなく、音信不通のままであったのでその不信を怒り、彼らの多くは主君を見限って久武氏に降伏した。かくして三間地方を無血で制圧した久武氏は、南伊予の南端に進軍して猿越城・宿毛城・縁城・御荘本城を落とし、翌年には西園寺氏の居城黒瀬城を陥落させた。これで残る西園寺方の城は土居城のみとなったが、城兵はもはや自己の勢威を維持することが不可能であることを悟って久武氏に降伏、ここに南伊予は元親の掌握するところとなった。(高知県史参照)

 

 

長宗我部、四国を征服 

 

長宗我部元親は南伊予に兵を送ると同時に、北部へも兵を入れて南北から河野通直を挟撃する体制をとった。いよいよ四国征服もその総仕上げのときを迎えたのである。その北部方面軍は、まずは毛利氏の侵入を防ぐため、温泉郡の恵良・高山・越智郡の菊間などの瀬戸内海に面した地域を占領した。すると伊予北部の国人たちがこぞって元親に屈服したため、河野氏の勢力は僅かに伊予中部を保持するにすぎなくなった。この事態に驚いた河野氏は海を渡って安芸の毛利輝元に面会し、救援を要請した。しかしその甲斐なく輝元に断られた。当時、輝元は羽柴秀吉と領国境目問題の未解決部分を処理するのに忙しかったので、救援どころではなかったのである。毛利氏に見放され国人衆に背かれた河野氏は、伊予に帰国するも何ら手を打つでもなく、無為に時を過ごすのみであった。もはや滅亡を待つばかりの「死に体」となっていたのである。この年の内に河野氏が降伏したという事実はないものの、すでに伊予は元親によて制圧され、元親が岡豊城に居たころから願い続けて来た四国征服の夢が、今ここに実現したと言ってよい。(高知県史・三原市史参照) 

 

 

龍造寺、島津勢と島原で激突 龍造寺隆信戦死 

 

3月、島津家久が有馬晴信救援のために島原半島に再上陸し、龍造寺隆信との決戦を挑んだ。昨年取り交わした島津・龍造寺の休戦協定を無視しての侵攻である。これを知った隆信も直ちに出陣し、島原に向かった。このときの兵力は、龍造寺軍五万七千に対して島津軍は三千という圧倒的な差があった。劣勢を極めた家久は、島原に上陸するとすぐ、乗ってきた船を全部本国薩摩に帰し、背水の陣で全員討死の覚悟を示した。家久はこのとき「勇猛果敢に何恐れることなく突進せよ われら全員の討死が避けられぬ今となっては 臆病と卑劣により薩摩の名声を消すことなかれ」と叫んだという。一方、隆信は家久の本陣森岳要害を攻めることに決し、軍を浜手・中道・山手の三手に分けて、自らは山手から攻撃することにした。ところが隆信が小高い所から敵の陣営を一望したとき、島津勢が少ないのを見て嘲笑し、戦いの直前に布陣を変更して自ら沖田畷の中央突破を試みようとした。この敵情軽視が龍造寺氏の転落の運命をもたらすことになる。隆信の本隊軍が深口に入ったころ、今まで隠れていた島津方の伏兵が一斉に弓・鉄砲の射撃を始めたため、龍造寺軍は総崩れとなり、隆信の首が島津方の武士の手によって討ち取られた。隆信は島津の戦術にまんまとひっかかったのである「沖田畷の戦い」。(神埼町史参照)                                         

 

 

島津・大友、弱体化した龍造寺領を蚕食 

 

当主隆信を失った龍造寺家は脆く、これまで九州で大友・島津・龍造寺氏の三者鼎立状態にあった均衡が一気に崩れた。島津義久はこの勢いで関を切ったように北進を開始し、隈本から吉松・高瀬へと進んでいった。隈部城の隈部親泰が義久に降り、10月には小代城の小代親伝も降って肥後北部が義久の支配下に入った。同じころ大友宗麟もまた龍造寺氏の弱体ぶりを見て攻勢に転じ、筑前・筑後の奪還を図るべく、立花城の戸次道雪、岩屋・宝満城の高橋紹運らを自陣に復帰させた。戸次・高橋氏らは、秋月・筑紫・草野・問注所・星野氏ら龍造寺方の抵抗を排除しながら筑後に入り、宗麟の将兵と合流して筑後の猫尾城を攻め落とした。その後も戸次・高橋氏らは河崎表大蔵山に陣を寄せ、更に下筑後の西牟田・水田表から柳川近辺まで転進したが、敵(龍造寺方)は一人も現れなかったという。この状況を見た山下城の蒲池鎮運も宗麟に降った。このように今や龍造寺領は島津・大友氏の餌食と化したのである。そうした中で、龍造寺政家(隆信の子)は生き残りを賭けて義久への従属を模索し、翌年には正式に義久の幕下となる。(筑後市史参照)

 

 

伊達、伊具を奪回 大内・畠山、伊達氏から離反 

 

伊達氏と相馬氏とは晴宗・輝宗の伊達家二代に渡って対立が続いており、この年もまた両氏の間で戦いが行なわれた。戦いの場は伊具郡である。伊具郡は元々伊達氏の支配領域であったが、永禄7年に相馬氏に奪われてからは、その攻防戦が繰り広げられていた。特に三年前、小斎城の佐藤宮内が相馬氏に背いて伊達方に走ったことから、この戦いが激化していった。そしてこの天正12年には伊達勢が金山城・丸森城を落とし、更に矢野目・冥加山・館山まで戦域を広げていった。このように戦局が伊達優位に展開している最中、事態を一変させる出来事が起こった。小浜城の大内定綱が二本松城の畠山義継と組んで輝宗から離反し、佐竹・芦名連合に加わったのである。特に地理的に伊達氏と分断される形となった三春城の田村清顕にとっては一大事であった。田村氏は夫人が相馬氏の女子であり、娘は輝宗の子政宗の内室となっていた関係から、両者の間を仲介して熱心に和議を勧めた。輝宗は和議を承諾し、相馬氏もまた金山・丸森両城を輝宗に返還するという条件を受け入れ、ここに伊達・相馬両家の和解が成立した。共に大内氏を攻める密約も同時に交わされた。こうして二十年に及ぶ両氏の対立に終止符が打たれたのである。尚、この年10月、伊達家の家督は輝宗から嫡子政宗に相続され、政宗が米沢城主となっている。(福島県史・丸森町史・相馬市史参照) 

 

 

芦名盛隆、家臣に弑逆される 

 

ちょうど伊達政宗が家督を相続したのと同じころ、芦名盛隆が黒川城の書院において大庭氏なるものに弑逆された。大庭氏は盛隆の寵臣であったが、このころに至って疎んじられてきたのを恨み、この挙に出たものと伝えられる。これより南奥州に対峙する伊達氏と芦名氏の将来は、鮮やかな明暗をもって予告されたのである。盛隆の跡を継いだのは、盛隆死去の前月に生まれたばかりの亀若丸(亀王丸)であった。盛隆の横死と、後に残されたのが嬰児という悪条件の中で、芦名家中は極度の混乱に見舞われた。政宗がこの混乱を見逃すはずはない。政宗はここで反芦名・佐竹連合の旗幟を鮮明にし、早くも翌年にはその行動が開始される。芦名氏もまた政宗との敵対を明確にして、佐竹氏との連合を強めていった。これより両軍の互いの命運を賭けた大勝負が始まる。(福島県史・白河市史参照) 

 

武藤、最上支配からの脱却を図る 

 

武藤義氏横死後、多くの国侍が最上義光の支配を受け入れたものの、彼らが庄内領の仕置きまでも義光に渡したわけではなかった。とはいえ新領主となった武藤義興の力量では、人々を納得させ争乱を鎮圧させることは不可能であった。ことに東禅寺筑前守(元前森蔵人 義氏打倒の中心人物)との間はもつれ熾烈に対立した。そこで義興は、なんとかそうした情況を打開すべく、東禅寺氏を鎮めようと義光に加勢を要請した。この依頼を受けた義光は、仲介して両者を和解させようとするが成功しなかった。果たして義光が心底から調停をしようとしていたかは疑わしい。義興はこのとき最上氏を見限ったのであろう。今度は本庄繁長を通じて上杉景勝の傘下に入り、強大な上杉の軍事力を背景に庄内の平定を推進しようとした。一方、この事態を憂えた義光は、それでも庄内進攻を強行することはしなかった。領国をよく固めずして、いたずらに外征のみに突っ走しると如何に恐ろしい悲劇が起こるかを、義氏横死事件から学びとっていたからである。いずれにしても義興はこの段階で完全に最上支配から脱したのである。(山形市史・村上市史参照)

 

 

 

1585 天正13年

秀吉、紀伊を平定 

 

徳川家康と和議を成立させた羽柴秀吉は、それまで家康に同盟していた者たちを潰しにかかった。最初のターゲットは紀伊衆である。3月、秀吉軍は和泉の岩和田城に入り、ここで根来・雑賀ら紀伊衆の最前線基地である千石堀・畠中・沢・積善寺の諸城を攻撃した。千石堀が秀吉軍の猛攻で陥落し、紀伊衆が多数戦死すると事態が急転、沢城が「扱」により秀吉軍に無血開城し、その他の城も徹底抗戦を選ばず、悉く無血降伏した。こうして和泉を制圧した秀吉はその勢いで紀伊に入り、根来寺・粉河寺に攻め込んで七堂伽藍を焼き払った。「葉を枯らし根を断つべし」との秀吉の命令に従って一揆勢は容赦なく討ち取られ見つけ次第切り殺された。織田信長の「比叡山の焼き討ち」よりも冷酷であったという。その後、秀吉は雑賀を占拠したが、逃げ延びた雑賀衆は太田城に籠って最後の抵抗を試みた。対する秀吉軍は水攻め作戦で対抗し、四方に堤を築いて昼夜を問わず普請を行った。その間、秀吉は紀伊を南下し、秀吉に抵抗した畠山家臣団の討伐に向かった。その過程で有田郡の白樺氏・神保氏、日高郡の玉置氏、牟婁郡の堀内氏が秀吉に帰参したので、紀南に残る敵対者は日高郡小松原の湯河氏のみとなった。その湯河氏も恐れをなして逃亡し、ここに畠山家臣団は壊滅した。4月には太田城の堤の構築も終了して城兵たちが水に浮かんだ。それを見計らって秀吉軍が城を攻撃したため、さしもの雑賀衆もこらえきれず降伏し、紀伊が秀吉によって平定された。(泉大津市史・和歌山県史参照)

 

 

秀吉、四国を征服 長宗我部氏降伏 

 

羽柴秀吉の次のターゲットは四国であった。これより前、長宗我部元親は使者を秀吉の許に派遣し、四国を領せんことを求めていた。対する秀吉の答えは「土佐一国は元親に与えるが、他の三国を献じて速やかに上洛せよ」とのことであった。失望した元親は、敵を見ざる内に領地を差し出すのは本意でないとして秀吉の命令に応じず、秀吉と対決する姿勢を示した。このような経緯の末に、秀吉は弟の秀長を主将とする四国征伐を断行したのである。作戦は三方面から封じ込める戦略を採った。一軍は秀長が三好秀次と共に淡路から鳴門海峡を押し渡って阿波の土佐泊に、二軍は宇喜多秀家が蜂須賀正勝・黒田官兵衛らと共に播磨から讃岐の屋島に、三軍は毛利輝元が三原から伊予の新居浜にそれぞれ上陸した。一軍の秀長勢は、まず木津城の水源を断って昼夜強襲し、同城を落城させた。そのころ二軍の宇喜多勢は牟礼城・高松城・香西城等を抜いて植田城を攻め掛かっていた。その陣中、黒田官兵衛が「讃岐の敵は恐るるに足らない、阿波にある土佐方の主力を破れば讃岐は自壊する」と主張したため、一同これに同意して阿波へ方向転換し、秀長の軍に合流した。秀長・宇喜多合同軍は一宮城を攻め落とし、更に牛岐城・渭山城などの東海岸防備線を崩した。また脇坂方面へも兵を向けて脇城・岩倉城を攻め落とした。一方、三軍の毛利勢は元親の本営白地城に迫っていた。ここに至り阿波の潰滅によって四面楚歌に陥っていた元親は、もはや挽回不可能と悟り、遂に三男を質として秀長の許へ降伏を申し出た。その旨を受け取った秀吉は元親に土佐一国を与え、他の三国を没収して元親の降伏を許した。ここに四国は秀吉によって征服された。(徳島県史・新修香川縣史参照)  

 

 

秀吉、関白に就任 豊臣姓を名乗る 

 

四国で長宗我部征伐が行なわれていたころ、京都では羽柴秀吉の関白職獲得の活動が行なわれていた。初めは、天下統一を目指す秀吉としては、武門の棟梁たる征夷大将軍の就任を望んで足利義昭の養子になろうとしていたが、源氏の嫡流を自認する義昭がそれを許すはずはなかった。そこで秀吉は人臣最高位の関白職をねらい、7月、昇殿して関白の宣下を受けるに至った。当時、摂関家の近衛信尹と二条昭実の関白職をめぐる争いが起こり、その争いに乗じる形で、菊亭晴季の画策により、秀吉が漁夫の利を得たのである。9月には豊臣姓の勅許を得、ここに天下人関白豊臣秀吉が誕生した。(クロニック戦国全史参照)

 

 

秀吉、越中を制圧 

 

四国の征服を終えると、関白豊臣秀吉は天下人としての初仕事に乗り出した。それは越中と飛騨の征服である。飛騨へは金森長近に出兵を命じ、越中へは秀吉自らが出陣するという両面作戦が採られた。この情報を得た越中の佐々成政は既に大勢の非なるを悟り、織田信雄を頼って和を乞うた。しかし秀吉はそれを許さず、卿相雲客に見送られ、いとも豪華に都を発った。従う者数万騎、旗幟山野を覆うて四隣を圧し、権勢を士民に誇示するための示威行列の観を呈した。あえて旅程も急がず、沿道の歓送迎に御慢悦の態であった。金沢城に入って前田利家の丁重を極める歓待を受けた後、越中呉服山に陣して富山城を眼下に見下ろした。成政は守山・木舟・増山の兵を悉く富山に集め、最後の決戦を試みんとしたが万策尽き、髪を削って降を請うた。信雄の哀願と利家の助言があったので、秀吉はようやくこれを聴して成政を赦免した。ここに秀吉は越中を制圧し、新川一郡を成政に、残る三郡を勲功第一の利家に与えて北陸の経営に当たらせた。(高岡市史参照)

 

 

秀吉、飛騨を制圧 

 

金森長近は三木自綱の討伐を関白豊臣秀吉に命じられ、飛騨に向けて出陣した。このとき前に自綱のために飛騨を追われていた江馬・鍋山・河尻・牛丸らの諸氏が従っていた。最初に攻撃したのは牧戸城である。城兵は頑強に抵抗したが、やがて郡上郡の遠藤氏の援軍が加わるに及んで勝敗が決し、落城した。勢いに乗った金森勢は、更に小鷹利・小島・古川蛤などの諸城を次々に落として古川盆地一帯を制圧し、自綱が守る広瀬高堂城を包囲するに至った。ここで金森氏は幾度か降伏を勧めたが、自綱は聞き入れなかったので総攻撃を開始、城兵は奮戦するも結局敗れ、城を開いて降伏した。残るは自綱の嫡男秀綱が籠もる松倉城である。この城は飛騨一の要害として築造した堅固な城で簡単に落城しない筈であった。ところが籠城兵の中に寝返る者が出て火を放ったので、城はあっけなく落城、秀綱は奥方を連れて落ちて行き、角ケ平河原の絶壁に追い詰められて自刃した。ここを「秀綱淵」と今に伝えられている。奥方は徳本峠を越えたところで土地の杣人に身ぐるみ剥がされ、やがて命を絶ったという。今に「執念谷」と呼ばれている。こうして三木氏は名実共に滅び、飛騨が秀吉の支配するところとなった。(飛騨下呂通史・宮川村誌参照) 

 

 

阿蘇、島津氏に降伏 龍造寺、島津氏に降伏 

 

昨年、沖田畷の戦いで島原半島・肥後北部を制圧した島津義久は、今年に入ると肥後で最後まで抵抗を続けていた阿蘇惟光の討伐を開始し、阿蘇氏の属城を次々と落としていった。この怒涛のように押し寄せる島津軍に肝を冷やした阿蘇氏は戦う気力を失い、居城の矢部城を開いて義久の軍門に降った。こうして肥後を制圧した義久は、次に矛先を北に向けて兵を進発させた。そのころ豊後の大友宗麟もまた、龍造寺氏に奪われていた領土を奪回しようと、筑前・筑後に向けて活発に動き出していた。宗麟の先鋒を務めたのは筑前立花城の戸次道雪・宝満城の高橋紹運らである。今や島津・大友の両雄が、弱体化した龍造寺氏の領地を目指して突進して来ていたのである。もはや彼らに抗する力なしと判断した龍造寺政家は、ここで義久との和平を模索し、永く島津氏の幕下になるとの神文を提出して義久に降った。かくして圧倒的な勢力となった義久は、これより破竹の勢いで北進し、たちまち猫尾城を奪回して筑後から大友勢を追い出した。そして義久は宗麟との全面対決の場へと進んでいく。(筑後市史参照)  

 

真田、家康から秀吉に鞍替え 

 

徳川家康は真田昌幸に、上野の吾妻・沼田二郡を北条氏直に引き渡すよう勧告した。これが実現しなければ領土問題が解決せず、北条氏直との関係を悪化させかねなかったからである。家康は西から迫る関白豊臣秀吉の圧力に対抗することに精一杯だったので、東の北条氏と事を構えたくなかったのだ。果たして真田氏はそれを拒否した。「沼田領は家康から与えられたものではなく、自力で確保した領土である」との言い分を貫いたのである。以後、真田氏は家康と断交して上杉景勝に接近し、次男信繁を人質にして景勝との提携を実現した。さっそく家康は真田討伐軍を発し、真田氏の本拠上田城を攻撃した。城際まで迫ったが、ここで家康は真田氏の策略にはまって大敗し、総崩れとなって後退するところを、更に真田氏に追撃され、犠牲者を多数出す惨敗となった「神川合戦」。その後、体制を建て直した家康は上田城攻撃を再開したが、その最中になぜか再び撤退した。これには真田氏も上杉氏も驚いたようで、両者ともにその心意を計りかねた。実はこの撤退は徳川方内部で起こった事件が背景にあるといわれている。それは家康の重臣石川数正が、信濃深志城の小笠原貞慶を伴って秀吉の許に出奔し、家康方軍事機密が筒抜けになるという事態に陥ったことである。結果、この戦いは真田方の勝利に終わり、真田氏の名声を天下に響かせることになった。(須玉町史・長野県史参照)                 

 

 

大浦、津軽を平定 

 

大浦為信は天正6年に浪岡城を攻略して以来、天下の動きを見つめつつ国内の充実に力を注いでいたが、この年再び領土拡大に動き出し、外浜への侵攻を開始した。まずは横内城の堤弾正左衛門を呼びつけて鉄砲で撃ち取ったのを手始めに、奥瀬善九郎の油川城や蓬田越前の蓬田城を攻略し、さらに高田城の土岐則基、荒川・高野の地侍たちを降伏させた。これを怒った南部家当主の信直は、名久井政勝に三千の兵を添えて津軽遠征軍を発進させた。名久井氏は残雪の八甲田山中を踏破して浅瀬石城に襲いかかったが、農民・町人から婦女子までも動員した千徳政氏の籠城作戦にあって大敗した。このとき名久井勢は人馬もろとも黒石馬場尻の十川萢にぬかり、身動きがとれず多くの者が溺死した。彼らが高陣場に集結したときには、生きて帰った者が数える程しかいなかったといわれている。こうして外浜は占領され、津軽が為信によって平定された。尚、このころから為信は京都との連絡を密にし、津軽独立が公認されるべく働きかけを行なうようになった。それは津軽占領の正当性の主張であった。大浦家は祖先津軽藤原氏の後裔で、南部氏にその津軽を奪われ、私はその旧領を奪い返しただけなのだ、と宣伝したのである。(平賀町誌・青森県の歴史参照)

 

 

大内、伊達政宗祝儀のため米沢城に参候 

 

天正12年、伊達政宗が家督を相続してまもなく大内定綱が祝儀のため米沢城にやってきた。大内氏は今後は芦名・佐竹氏を離れて、もっぱら伊達家に奉公を励むべきことを述べ、米沢に屋敷を賜り妻子を引き移したいと政宗に願った。政宗から離反して間がない大内氏がなぜ、と皆首をかしげたが、大内氏の支配領域が伊達氏と田村氏を結ぶ重要な地点にあったので、政宗は大内氏の服属を喜んで直ちに屋敷を与えた。大内氏としては、芦名盛隆弑逆事件が起こったことで芦名氏を頼ることに不安を感じたのだろうが、一説には政宗に従うように見せかけて、政宗の家臣を油断させるための行動であったともいわれている。後の彼の行動を見れば後者の方が妥当するかに思われる。米沢に越年した大内氏は、天正13年(1585)の春に再度の米沢参候を約束して本拠地小浜城に帰ったが、再び米沢に戻ることはなかった。政宗は、大内氏の心変わりを芦名氏の圧力によるものとし、まずは芦名攻撃を掛けることにした。芦名氏は生後わずかの亀若丸が家督になったばかりという混乱の最中であった。この虚をついて政宗は5月、桧原口より会津領に侵入した。しかし予想していたよりも芦名方の結束は固く、内応する者もなく政宗の軍は惨敗した。まして米沢を留守にしている間に畠山義継に背後を衝かれる心配があったので、長期の在陣は許されなかった。そのため政宗はひとまず米沢に帰り、今度は大内討伐に転じることにした。(郡山市史・福島県史参照)  

 

 

伊達政宗、大内領を占領 

 

8月、伊達政宗は大内討伐軍を発し、大内定綱が籠もる小手森城を包囲攻撃した。しかし城中より打って出る者がなく引き揚げようとしたとき、急に兵が出て伊達勢に追撃をかけてきた。ために伊達勢は引き返してこれを迎撃した。このとき大内氏の援軍芦名・畠山勢が一緒になって挑みかかり、伊達勢五百余人が戦死するという大混戦となったので、政宗はその日の戦闘をきり上げて野陣した。大内氏はこの隙に小手森城から本城小浜城に移って降伏を願い出たが、政宗はこれを許さず、小手森城を放火して答えた。火は燃え広がり、大内勢がそれぞれの持ち場を離れて逃げ惑う混乱の中を、伊達勢は城に乗り込み、男女八百人を撫で斬りにして大内攻めの決意のほどを示した。この勢いに恐れをなした大内方の支城は、次々に放棄され五箇所が自落したという。その後しばらく膠着状態が続いたが、家臣の片倉景綱から戦局打開の進言があった。それは小浜城の直接攻撃を見合わせて岩角城へ攻めかけてはどうかというものである。その気配が大内氏を慌てさせた。岩角城が落城して伊達方に押さえられることになれば、万一大内方が退却となった場合に逃げ道がなくなるというのである。岩角落城以前に小浜城を捨てて畠山氏の本拠地二本松へ退却することがよいと決定され、大内氏は援軍の芦名・畠山の勢ともども城を脱出した。こうして政宗は空城となった小浜城を接収し、大内領を占領した。(郡山市史参照)

                     

 

 伊達政宗、畠山氏と父輝宗をもろとも射殺 

 

大内領を占領した伊達政宗の次の矛先は、二本松城の畠山義継であった。ところが政宗の勢いを察した畠山氏は、自ら赦免を求めて政宗の許に参候した。けれども政宗は容易にこれをを許す気配がなかったので、畠山氏は塩松城より南2kmほど離れた宮森城に滞在する伊達輝宗を頼って、政宗へのとりなしを依頼した。伊達方では談合が行われ、畠山氏の降伏の条件が検討された。その結果、二本松の杉田川以南と油井以北の地を没収し、二つの川に挟まれる二本松を中心とする五ヶ村のみを与え、子息国王丸を人質として米沢に差し出すことが決定された。その内容が畠山氏に伝えられ、これ以下の条件は認められないとも付け加えられた。実力では勝負にならないと覚悟した畠山氏はこれを呑み、仲介の労をとってくれた輝宗に礼を述べるため、再び宮森城に参候した。しかし思わぬ事件がその直後に起こった。畠山氏は面会を終わっての帰り際、送りに出て来た輝宗を不意に捕らえ、そのまわりを畠山氏の家士たちが抜刀のまま取り巻き、二本松を目指して進んだのである。あまりの出来事に伊達勢も手の下しようがなく、ただうろたえてあとを追うのみであった。変報は直ちに鷹野にいた政宗に告げられた。政宗は高田原で追いついたが、輝宗を奪回するすべもなく、遂に輝宗もろとも畠山主従を射殺した。これ以後、事態は南奥全体を巻き込む動乱へと発展していく。(郡山市史参照)      

 

 

伊達、佐竹連合軍と人取橋で激突 

 

伊達輝宗の初七日がすんだ後、伊達政宗は父の弔い合戦を決行し、畠山国王丸(義継の子)が籠もる二本松城を攻めた。しかし城は容易に抜けなかった。他方、佐竹・芦名以下三万の連合軍が須賀川に結集し、畠山氏を援護するため二本松を目指して北上していた。その報が政宗の許に達すると、彼は七、八千の軍勢で安達郡岩角城に出馬し、本宮において北上する連合軍を迎え撃った。戦いは敵味方おのおの五千の軍勢で交えられ、高倉城と人取橋とが激戦場となった。伊達勢は百余人の戦死者が出るなどの苦戦を強いられ、連合軍優勢の中、戦いはなお続くと思われた。ところがなぜか連合軍は本宮を抜くことなく全軍の撤退となった。佐竹義重が常陸に帰陣したためらしい。帰陣の理由は常陸の本領が江戸重通に侵略されたためとも、佐竹氏の軍師が家僕に刺殺されたためともいわれるが定かではない。いずれにせよ人取橋の戦いは政宗にとって「万死一生」の戦いであった。(福島市史・福島県史・郡山市史参照)

 

 

 

1586 天正14年

家康、秀吉に臣従 

 

徳川家康の実力を十二分に知恣していた関白豊臣秀吉は、天下統一を早期に達成させるためには、家康との平和的提携が不可欠の条件であると考えた。ここから秀吉の強引な家康抱き込み工作が始まる。秀吉の異父妹旭姫を家康の正室に押し付け、更に実母大政所を実質的な人質として岡崎に送ってまでして、家康の大坂招致に努めたのである。これではいかに用心深く、かつ面子を失うことを恐れた家康といえども腰をあげざるを得ない。10月、家康は大政所の岡崎着を見届けた上で西上し、大坂城に赴き秀吉に謁して臣従の礼をとった。こうして秀吉は武器を使わず粘り勝ちによって宿願が達せられされ、天下統一の大業完成も大幅にその日程を早めることになった。尚、これを契機に秀吉は、家康から出奔していた真田昌幸・小笠原貞慶の「徳川所へ返し置くべき由」を決定し、信濃一国を家康の領有として承認した。(京都の歴史・群馬県史参照)

 

 

島津、筑前に侵攻 

 

龍造寺氏を降して九州随一の実力者となった島津義久は、九州を征服すべく最後の仕上げを急いだ。仕上げとは、豊後・豊前・筑前に勢力を張る大友宗麟の討伐である。まずは筑前をその攻撃目標とした。ここには立花城の立花道雪、岩屋・宝満城の高橋紹運という二人の勇将がいた。これを倒さなければ筑前の平定はない。7月、義久の命を受けた弟の義弘は万を超す大軍を率いて筑前に入り、岩屋城に攻め入った。島津軍の攻撃は激烈を極め、壮絶な戦闘が展開された。城兵はよく戦ったが全滅の状態で落城し、紹運は自害した。続いて宝満城も落城し、紹運の次男宗増が降伏した。その後、義弘は立花城へと向かうが、この城は岩屋城よりも堅固である。城主の道雪はこの9月に病死していたが、跡を継いだ統虎が死守して譲らず、島津軍に降ることはなかった。後に秀吉から統虎を「九州の一物」と讃えられるほどの勇猛ぶりであった。立花城の攻略に失敗した義久は、一部兵を置いて肥後に引き返し、再起を図った。(大分市史参照)  

 

 

秀吉、島津討伐を発令 

 

島津義久の脅威に晒されていた豊後の大友宗麟は4月、大坂城に赴いて義久の討伐を関白豊臣秀吉に要請した。宗麟のこの要請は既に前年から行われており、秀吉はそれを受けて義久に停戦を命じていた。ところが義久は「大友氏が国境を越えて進入してきたので防戦したのだ」と弁明するのみで、秀吉に従おうとはしなかった。そこでこの年、秀吉は義久の使者を大坂に呼び出して九州分割案を提示した。それは、豊後・豊前半国・肥後半国・筑後は大友氏、肥前は毛利氏、筑前は秀吉の直轄、それ以外の豊前半国・肥後半国・日向・大隅・薩摩を島津氏に与えるというものであり、もし7月までに返答がなければ、秀吉自身が九州に出馬するとの恫喝も加えられた。果たして義久はこの案を拒否、秀吉との対決を明らかにするとともに、秀吉の忠告を完全に無視して大友討伐の号令が発せられた。その進行路は昨年の筑前立花城攻撃の失敗を踏まえて、今度は直接宗麟の本拠である豊後に攻め入る作戦が立てられた。直ちに実行に移され、日向口から義久が、肥後口から義久の弟義弘が兵を率いて両面から豊後へ侵入した。宗麟はこの事態を泣訴したため、秀吉はこれより九州征伐を決断し、毛利輝元・小早川隆景を豊前へ、仙石秀久を豊後へ向けて出陣させた。これより島津・豊臣の直接対決が始まる。(筑後市史参照) 

 

 

島津、豊後を制圧 

 

関白豊臣秀吉に島津討伐を命ぜられた仙石秀久は7月、豊後から上陸して大友宗麟と合流した。ここで仙石氏は大きな失態を犯す。「合戦せずに籠城して援軍を待て」という秀吉の軍令を無視したのである。それはたまたま豊前で反大友の兵が反乱を起こした時であった。仙石氏はその反乱を鎮圧するのため豊前へ出陣した。折りしも島津義久の率いる一隊が日向口から、弟義弘が率いる一隊が肥後口からどっと豊後へ侵入してきた。仙石氏は慌てて府内へ引き返したが、ちょうどそのとき、鶴賀城が義久に攻撃されている、という報が届いた。そこで仙石氏は鶴賀城の救援を決断二度までも秀吉の指示を無視したのである。仙石氏は府内を出発して戸次川の西岸鏡城に着陣した。その報を得た義久は鶴賀城の囲みを解いて岡山に布陣し、11月、戸次川を挟んで対陣した。両軍対峙の中、仙石氏が先に動き出し、川を渡って山崎に攻め込んだ。すると義久が退却したので仙石氏はそれを激しく追撃した。このとき事態が一変、島津の二番手が突如襲い掛かって来たため、仙石氏は驚き隊を乱して中津留河原へ追い込まれた。ここで両軍入り乱れて戦闘が繰り広げられ、激戦の末、仙石氏が敗れて府内へと潰走した。その府内も島津勢に占領されて、仙石氏は宗麟と共に豊前の龍王城へ逃走し、豊後は義久によって制圧された「戸次川の合戦」。(大分市史参照)  

 

 

毛利、九州に上陸 豊前を制圧 豊前西部を制圧

 

関白豊臣秀吉から島津討伐を命ぜられた毛利輝元は8月、領国将兵に下関集結を命じるとともに先鋒を門司に送った。このころ立花城を囲んでいた島津軍は、毛利の本隊軍が押し寄せて来るのも近いと判断し、兵を徹して八代に退いた。その機を逃さず立花城の立花統虎は、島津軍を逐って岩屋・宝満城を奪回した。やがて小早川隆景・吉川元春・黒田官兵衛ら毛利本隊が大軍を擁して九州に上陸し、10月、直ちに小倉城を攻め落とした。すると豊前香春岳城の高橋元種が風を読んで毛利氏に降ったのを皮切りに、豊前の諸城が相次いで降伏した。ところが高橋氏は再び島津方に寝返り、急に宇留津に城を築いて門司・豊後間を遮断せんとした。これを怒った毛利氏は急ぎ宇留津に向かい、黒田氏と共に三方から猛攻を掛け、その日のうちに落城させた。このとき籠城兵千余人を斬首し、降伏した男女三百七十余人を悉く磔にするなどの大量虐殺が行われたという。毛利軍は更に追撃して高橋氏の属城障子嶽城を攻め落とし、逃げる敵を追って香春岳城に猛攻をかけ遂に高橋氏を降伏させた。こうして豊前西部が毛利氏によって制圧された。(羽須美村史・田川市史参照) 

 

 

最上、武藤勢と激突 飽海郡が最上氏の支配地となる 

 

遂に武藤義興と最上義光の激突が始まった。舞台は飽海郡である。最上方の東禅寺筑前守が飽海郡に反乱を起こし、これに呼応する形で、義光もまた援軍を飽海郡に送ってきたのである。最上勢は武藤方木次氏房の観音寺城を激しく攻め、これを落とした。おそらくこのとき飽海郡は殆ど最上勢によって占領されたのだろう。同じころ田川郡にも反乱が起こり、最上方の高坂中務が高坂城に挙兵したが、これは武藤勢の攻撃を受けて滅亡したらしい。最上氏が飽海郡から更に田川郡に攻めて来るのを恐れた武藤氏は、越後の本庄繁長と米沢城の伊達政宗に援けを求めた。さっそく動き出したのは政宗である。政宗は最上氏の勢力増大を妨害・阻止したいという思いがあったので、武藤氏の要請を受け入れ、義光に和解を強要した。義光は政宗からの報復を恐れてこれを承認し、両者の間に「一和が成就」した。こうして庄内は最上方の侵入を免れ武藤氏の支配地として残った。但し飽海郡は義興に返還されることなく、義光の支配するところとなった。(山形市史・村上市史参照) 

 

 

最上、小野寺氏と対戦 

 

最上義光が武藤義興と戦っていたとき、その隙を突いて小野寺義道が千余騎五千人余の歩卒を率いて有屋峠に布陣した。最上義光に押領されていた真室地方を奪い返すために攻めてきたのである。この報を聞いた義光は騎馬侍千五百騎一万八千人余の歩卒を率いて有屋峠の在家に布陣した。ここで両軍の激闘が始まったが、小野寺方の軍師八柏大和守の巧妙な作戦によって最上勢が翻弄される戦いとなった。最上勢の大軍を狭い山道に引き入れて殲滅するという作戦である。小野寺勢が銃声を合図に退却を始めると、最上勢は勝ったものと思い一斉に山道を追撃した。そこへすかさず小野寺勢が左右の山から強力な鉄砲隊と弓矢隊で挟撃、最上勢は散り散りになって逃走した。あわや壊滅かと思われたその直後、小野寺勢が突然撤退を開始した。仙北の戸沢九郎盛安が蜂起して小野寺氏の背後を脅かしているとの報が入ったからである。実はこれは義光が事前に仕組んでいた巧妙な作戦であった。義光もまた八柏氏に劣らぬ策略家であったといえる「有屋峠の戦い」。真室地方を守りきった義光は陣を引き上げ、急ぎ武藤氏との戦線へと向かった。(大雄村史・平鹿町史参照) 

 

 

戸沢、小野寺氏に反旗を翻す 

 

小野寺義道が有屋峠に布陣して最上義光と戦っているとき、戸沢九郎盛安が小野寺氏からの独立を図って蜂起した。戸沢氏は元々は仙北地方を治める独立領主であったが、永禄3年(1560)ころ小野寺氏に支配権を奪われ、いつか仙北を我が手にと領土復活の望みを持ち続けていた。そこへ義光から提携の依頼が届き、まさに渡りに舟とばかりに戸沢氏はこれを承諾した。義光は武藤氏との対抗上、戸沢氏に小野寺氏の南下を阻止するための牽制を期待したのである。かくして最上・戸沢同盟が成り、さっそく戸沢氏は布晒から田村を通り沼館に向かって進軍した。そして阿気野で小野寺勢と遭遇し、ここで対戦となった。結果は戸沢勢が小野寺氏の将小清水蔵人を討ち取り、小野寺勢が総崩れとなった。戸沢勢は逃げる小野寺勢を追撃しつつ首を二百余り討ちとり、更に沼館城を囲んで在家に放火した。有屋峠でこの報告を受けた小野寺氏は「直ちに囲みを解いて引き返せば罪は問わない」と戸沢氏に申し送った。それを受けた戸沢氏は戦いをやめて全軍角館に引き揚げた。引き揚げた理由は、小野寺氏が予想より早く有屋峠の戦いを終わらせたため、このまま戦い続けていると小野寺勢に挟撃されて潰滅すると考えたからである。戸沢氏は角館で静観することとなった。(大雄村史参照) 

 

 

伊達、畠山領を占領 

 

いよいよ畠山氏のとどめを刺すときがやってきた。昨年の人取橋の戦いでは、伊達政宗は軍事的な勝利を得られなかったものの、結果的には佐竹・芦名連合軍が畠山国王丸を救援するという目的を挫折させる役割を果たしている。このことは、連合軍に見放された畠山氏が遠からず自落の運命を辿ることを意味した。この年を小浜城に迎えた政宗は畠山氏の重臣らに内応の約束をさせて人質をとり、地侍二千余人を味方に引き入れた。その上で、二本松城を兵糧攻めにして畠山氏の降伏を待った。もはや畠山氏の自落も時間の問題と思われたが、この形勢を見ていた相馬義胤が和睦の仲介に入った。条件は国王丸とその家臣たちが二本松城を立ち退くこと、であった。政宗はその条件には不満であったが、老臣たちの談合によって相馬氏の仲介を容れることに決した。こうして和睦が成り、二本松城の本丸は畠山方によって焼かれ、国王丸らは会津に走った。ここに畠山領は政宗によって占領され、南北朝以来の名門畠山家が戦国の渦の中に消えた。(郡山市史・福島市史・柴田町史参照)

 

 

佐竹、芦名家に入嗣 

 

会津芦名家の当主亀若丸が疱瘡をわずらい、わずか三歳で急死した。芦名氏の男系がまたしても絶え、芦名家中は再び非運と混乱に見舞われたのである。一族重臣たちは後嗣を誰にするかについて談合した。伊達政宗の弟竺丸を入嗣させるべきとする伊達派と、佐竹義重の次男である白川義広を迎えるべきとする佐竹派がそれぞれ主張し、結局、佐竹派の途が選ばれた。ちなみに義広は天正6年に佐竹家から白川家に入嗣した人物である。その義広が芦名家の当主に選ばれ、この年3月3日上巳の節供に白河から会津黒川城に入った。そして芦名盛隆の息女と結婚し、芦名家の家督を相続した。こうして芦名氏は佐竹氏の統制下に組み込まれ、佐竹・芦名・白川の三家は佐竹氏を総帥とする破固不抜の連合体となった。(福島県史・福島市史参照) 

 

南部、岩手郡を占領 

 

この年、南部家から斯波家へ婿養子に入っていた高田吉兵衛が、高水寺城の斯波民部大輔と不和を生じて斯波家を出奔した。発端は高田氏の家来が斯波氏の家来を無礼のかどで切り捨てたことにある。これに立腹した斯波氏は高田氏を殺害しようと狙ったため、身の危険を感じた高田氏が斯波家を脱出して南部信直の許へ逃げ帰った。これぞ斯波領占領の絶好のチャンスと見た信直は、直ちに軍を編成して斯波討伐に向かい、まずは斯波氏一族の居住地でもある雫石城の攻撃を開始した。戦いの詳細は不明だが、信直は雫石の円蔵坊と通じて、雫石城主の斯波氏を滅亡に導いたと伝えられる。但しそれには岩手郡国人の大釜・工藤・福士・玉山・日戸・米内・渋民・川口の諸城主が悉く南部方に味方したことが、雫石城落城の大きな因を成していることを見逃してはならない。雫石城を攻略した信直は引き続き斯波氏の本領を目指して南下した。対する斯波氏はこれを防ごうと手代森舘に立て籠もった。しかるに手代森舘主は、不来方館主福士伊勢守の勧告に応じて信直に帰順してしまった。ために斯波氏は秘かに脱出して高清水城に撤退した。ここで稗貫孫次郎弘忠が調停を買って出、岩手が南部氏に占領されたまま、ひとまず停戦となった。(花巻市史・雫石町史参照) 

 

 

 

1587 天正15年

秀吉、九州を征服 島津氏降伏 

 

関白豊臣秀吉は西国大名を中心に二十五万ともいわれる大軍を率いて九州に上陸した。3月28日、小倉城に入った遠征軍はここで二手に分かれ、秀吉の弟羽柴秀長が率いる軍は豊後から日向路を進み、秀吉の本隊軍は筑前・筑後を経て薩摩を目指した。日向路に向かった秀長の軍は4月6日に高城を攻囲し、17日に島津氏の来援軍を根白坂で迎え撃った。結局この一戦が天王山となった。雲霞のごとく迫って来る大軍団を目前にして、島津義久は戦意を失い秀長に降伏の意を伝えた。一方、秀吉本隊軍は岩石城を落としたのを手始めに無人の野を行くがごとくに筑前・筑後・肥後に進軍、隈本城を接収した後、肥後佐敷から海路薩摩出水に渡り、5月3日、川内の泰平寺に本営を設けた。既に降伏を決意していた義久は5月8日、剃髪して秀吉に対面し、正式に和議を請うた。秀吉は若干の条件をつけただけで義久を許し、薩摩・大隅・日向諸県郡の領有を承認、ここに九州が秀吉によって征服されたのである。尚、秀吉は大友宗麟に日向を与えようとしたが、宗麟はこれを辞退した。島津氏に抹殺されかけた宗麟としては、本国豊後が安堵されたことで満足したのであろう。宗麟はこれを冥土の土産に間もなく世を去った。秀吉がまだ九州在陣中のことである。(筑後市史・大分県史・福岡県の歴史参照)  

 

 

最上、再び庄内を支配 

 

最上義光は伊達政宗の強要で武藤義興と和解したが、しかし庄内への野望は止まなかった。事実この年、義光は和解を反故にして再び軍勢を庄内に入れ、各所で小競り合いを起こした。武藤氏はひたすら政宗に援助を求め、最上勢を牽制してくれるようにと嘆願したが、当時は政宗も佐竹・芦名連合軍と戦っていたので、武藤氏の方に目を注ぐことができなかった。日増しに苦境に落ちていった武藤氏は、やむなく上杉氏に救いを求めざるを得なくなった。そこで武藤氏は本庄繁長との縁談を進めて上杉景勝の救援を取り付けようとした。そして本庄氏の次男義勝を養子に迎え、上杉氏の軍事的支配の下に入り込むことに成功した。だがこの成功は別の火の手を生み出した。本庄氏から養子を迎えたことで庄内の反上杉派一族・国人衆を刺激し、特にその頭目である東禅寺筑前守が再び反乱を起こす結果となったのである。ましてこの時期、上杉氏は新発田重家との対立抗争を深めていたので武藤氏を救援する余裕がない。今こそ絶好のチャンスと判断した義光は東禅寺氏と連絡を取り合い、遂に大軍を率いて庄内に侵攻した。武藤氏は防戦するも圧倒的な最上勢に敗れて居城の尾浦城が陥落、武藤氏は自害して事実上滅亡し、庄内が再び義光の占領するところとなった。尚、養子の義勝は辛うじて国境近くの小国城へ逃げ延びている。(山形県史参照)

 

 

 

1588 天正16年

秀吉、私戦禁止令を発令 

 

九州の平定が完了すると、関白豊臣秀吉は関東・奥羽の大名・領主たちに対し、「関東・奥羽両国迄惣無事の儀 若し違背の族においては成敗せしむべく候」と宣言した。これはいわゆる私戦禁止令といわれるもので、秀吉が全国統治者、武家政権の首長という自覚を持ち、諸大名の交戦を私戦と見なしてその停止を命じたものである。いわばこれまで紛争を解決するために行使してきた交戦権を戦国大名から取り上げ、平和を維持するための最終的裁判権を、統一政権としての秀吉の強い統制下に組み込もうとするものである。この私戦禁止令は主に関東の北条氏直と奥羽の伊達政宗に向けられた。この二人を制圧すれば天下平定が成ると見た秀吉が、ここで一気に決しようと考えたのである。(小田原市史・群馬県史参照)   

    

 

秀吉、北条氏に上洛を促す 真田氏の領土問題を裁定

 

私戦禁止令の発令に続き、関白豊臣秀吉の天下統一事業はその第二段が実行された。秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎えるとともに諸大名に誓紙を提出させて絶対的服従を求めたのである。ところがこのとき上洛しなかった者がいた。北条氏直である。そこで秀吉は徳川家康を仲介役として氏直の上洛を催促した。結局、家康の説得によって、氏直は叔父の氏規を上洛させることになった。氏規は秀吉に謁見し、沼田問題が解決すれば兄氏政が上洛するであろうと述べた。それに対して秀吉は沼田問題の如何にかかわらず、とにかく氏政・氏直のどちらかを上洛させるべきであると言って譲らなかった。とはいえ秀吉は氏規が上洛したことに対して一応の評価をしたようである。その後、秀吉は沼田問題を解決するための交渉を行って、以下の通り裁定を下した。1、沼田三万石の地を三等分し 2、三分の二を氏直のものとし 3、残り三分の一に当たる名胡桃の地は真田氏の墳墓の地であるから真田領とし 4、真田氏が失った三分の二の土地については家康が代償すること 5、これらが実行された後、氏政・氏直父子のうちの一人が速やかに上洛すること、以上の裁定に基づいて沼田城の割譲が速やかに行なわれ、天正13年(1585)以来くすぶり続けていた沼田問題が決着した。(平塚市史参照) 

 

 

大崎合戦 伊達勢敗退 

 

この年、伊達政宗が大崎義隆と戦った。当時大崎家では家臣団を二分する争いがあり、その争いの中で、執事である岩手沢城の氏家義直が反大崎方の頭目として仰がれていた。今年になってその争いが一段と激化したのだが、少数派であった反大崎方が窮地に立たされたため、氏家氏はやむなく伊達政宗に救いを求めた。政宗はこれを受けて直ちに留守政景を大将に任命し、出陣させた。結果は伊達方の敗北に終わった。その勝敗の鍵を握っていたのは他ならぬ伊達方の黒川晴氏である。彼の居城は伊達領と大崎領の中間にあり、進撃の拠点として絶好の位置にあった。その黒川氏が戦いの最中、突如大崎方に寝返ったのである。結果、伊達方が一気に不利な立場に陥った。まして中新田城攻撃の失敗によって大崎勢に退路を遮断されたため、留守氏は更なる窮地に陥り、命からがら新沼城へ逃げ込んだ。政宗は急ぎ援軍を送ろうとしたが、このころには最上義光が大崎氏の救援に駆け付け、更に佐竹義重らの反伊達連合軍が、仙道方面で激しく動き出して南北両面から挟撃を受ける形勢となったので、やむなく救援を中断し、留守氏も大崎方面から撤退した。かくして事実上の政宗の敗北となったのである「大崎合戦」。(多賀城市史参照)  

 

 

 伊達、最上氏と対決 義姫がそれを回避 

 

伊達政宗の大崎合戦敗退の陰には最上義光の策謀があった。もし政宗の勢力が大崎領を併呑することになれば、東方から政宗の脅威に晒されることになる。そう考えた義光は何としてもそれを回避しなければならなかった。そこで義光は佐竹義重を盟主とする反伊達連合軍の諸将に呼びかけて一大合従策を立て、その上で大崎義隆の救援に向かった。これによって政宗は窮地に陥ったのである。このまま大崎勢と戦いを続ければ、南北両面から挟撃を受けて潰滅の危機に陥るだろう。やむなく政宗は大崎から撤退し踵を返して義光を討つべく中山口国境に向かった。ここで両軍の本格的死闘が必至と見られたとき、一人の女性が現れた。義姫(政宗の母・義光の妹)である。夫と兄との抗争に苦悩した義姫は、両軍対峙の中山口国境の山上に突如、自ら駕籠を命じて乗りつけ、両陣営の中間に輿を据付けてしまった。両家和解の方法はこれ以外にないと信じて、ここから動こうとしなかったのである。輿を据えること八十日に及んだ結果、両者はついに和解した。(山県市史参照)    

 

 

田村、相馬・伊達・の両派に分裂 伊達派が勝利 

 

大崎合戦での伊達政宗敗退の報が伝わると、反伊達連合の諸将は俄かに活気づき、相馬義胤・大内定綱らが伊達領へ侵入を開始した。相馬氏は大胆にも見舞と称して平服のまま田村三春城に乗り込んだ。二年前に田村氏の当主である清顕が死んだのを機に、清顕夫人が相馬の出であることを理由に田村家乗っ取りを画策したのである。もちろんそこには田村家内部の相馬方との綿密な打ち合わせがあったことは言うまでもない。しかしこの画策はあえなく失敗に終わった。田村内部の伊達方がこれを察知して城中・城外から攻撃したためである。相馬氏はかろうじて船引城に入って難を逃れたものの、小手森城をはじめ相馬方を鮮明にしている田村家中の城が伊達方によって攻め落とされ、更に船引城をも攻め立てられたので、相馬氏は這々の体で相馬に逃げ帰った。(柴田町史参照) 

 

                                                                       大内、伊達氏に反撃 後和解 

 

流浪の身となっていた大内定綱が、伊達成実が守備する二本松城に反撃してきた。政宗の大崎合戦での完敗が大内氏に反撃のきっかけを与えたらしい。政宗は即座に迎撃体制を取ったが、含むところがあって、実際には百五十貫文の知行を与えることを条件に大内氏を味方に誘った。大内氏はその条件を呑み、起請文を介して別心ないことを誓った。政宗がこのような譲歩を行ったのは、相馬義胤の田村領侵入を契機に、佐竹義重を中心とした反伊達連合の脅威が迫っていたため、少しでも敵対者の切り崩しをしておきたかったのである。大内氏は、かつて政宗を裏切って芦名義広の許に逃走した経緯があったが、そのとき芦名氏からは当座の命つなぎの扶持米さえも与えられず、餓死の恐れさえあるほどのひどい待遇を受けていたことで、芦名氏への強い不信を抱いていた。そのこともあって政宗への帰参が許された大内氏は前非を悔い、以後、政宗に対して臣下の礼を尽くした。(福島市史・郡山市史・柴田町史参照)

 

 

郡山合戦 伊達、反伊達連合軍と激突 

 

伊達政宗が田村領から相馬方を排除し、また大内氏を懐柔するなど伊達の勢力圏が南へ延びてきたことは、会津地方の盟主を任ずる芦名義広にとって猶予の出来ぬ事態であった。そのため急ぎ伊達方の郡山城攻めが計画され、佐竹勢を加えた連合軍が郡山に進んだ。この動きを知った政宗は郡山城の救援に向かい、本宮に本陣を構えて窪田に砦を築いた。戦端は窪田砦付近で開かれ、激戦の末、政宗が危機に瀕した。このころの伊達勢は北の大崎・最上氏、東の相馬氏とそれぞれ対陣していたので、郡山の陣に参集した将士は六百にすぎず、連合軍の四千には到底敵しがたい状態にあったのだ。ところがこの絶対絶命にピンチの中で戦局は伊達方有利に動いていった。それは芦名氏内部での譜代と佐竹勢の不和に加えて、総帥たる佐竹義重自身が本国の不穏な動きによって出動できなかったこと、これらの悪条件が重なって、連合軍としての統率を甚だしく欠いていたことが理由としてあげられる。結局、両軍ともに膠着状態に陥って講和の道が開かれ、前田沢・部谷田を伊達氏に、富田・成田を芦名氏に所属させるという条件で正式な和睦が成立した「郡山合戦」。(郡山市史・福島県史参照) 

 

 

上杉、庄内・由利地方を制圧 

 

最上義光のために庄内を逐われた武藤義勝は、越後の実父本庄繁長の許に身を寄せ、雪辱の日の到来を待っていたが、この年やっとそのときが来た。このころになると上杉景勝に反抗し続けていた新発田重家は誅され、本庄氏も背後を突かれる心配がなくなったので、庄内奪還に向けた反撃が開始されることになったのである。本庄軍は上杉氏の後援を得て大軍を催し、海道と山道から破竹の勢いで進攻した。対する東禅寺筑前守らの最上勢は、主力を大宝寺城と尾浦城の中間で本庄勢を要撃する作戦を立てた。ここは十五里ケ原と称して未墾の広野がひろがり、三つの渓谷が並流して天然の要害をなしていた。最上勢の動きを事前に察知した本庄氏はその裏を嗅ぐ作戦に出た。内応者の手引きで渓谷に身を隠しながら渡河して最上勢の後方を迂回し、不意に攻め込んだのである。本庄氏のこの巧妙な奇襲作戦が功を奏して東禅寺氏はたちまち討ち取られ、尾浦城や大宝寺城も兵火で燃え、行き場を失った最上勢は散り散りに逃げていった。最上勢の完敗であった「十五里ヶ原の会戦」。本庄氏は更に東禅寺城や朝日山城を陥れて庄内一円を征服し、義勝を尾浦城に入れて武藤氏の跡目を継がせた。その後の最上掃討作戦は熾烈を極め、最上方の者は在所の者どもまで老若男女一人残らず虐殺されたという。ここに庄内の最上勢力は殲滅的打撃を受け、庄内の地に上杉氏の領国化が強行された。尚、前に最上氏の傘下にあった由利十二党なども、最上敗戦とともに由利郡に持っていた最上氏の権勢が一朝にして崩れ去り、武藤氏の配下となっている。(山形市史参照) 

 

 

最上、秀吉に臣属 

 

関白豊臣秀吉は、庄内における上杉・最上の争奪戦を見て、これ以上の私戦を禁止するよう両者に命令を下した。当然のことながら上杉勢に庄内を奪われた最上義光は、既成事実を作り上げられたまま私戦を禁止されてはたまったものではないと、徳川家康を通して本庄繁長の不当を秀吉に訴え出た。これに対し秀吉は上杉・最上の両者に上京を命じ、審理の上で判決を下すべき旨を通達した。さっそく両者は秀吉の通達に従った。上杉景勝は石田三成らの忠言に従って武藤義勝を上洛させ、画策させた。義光も家康と連絡をとりながら使者を上京させた。このように庄内の問題は三成と家康との派閥抗争にも繋がっていたが、義光の動きは家康の希望的観測があったためか、いささか積極性を欠いでいた。審理の結果は、武藤氏が出羽守に任ぜられ、従五位に叙せられ、更に豊臣姓をも許された。これはいうまでもなく庄内の領主権が武藤氏に安堵されたことを意味した。つまり庄内の争奪戦は上杉・本庄・武藤らの勝利に終わったのである。これは三成らの奔走の結果であることはもちろん、義光が家臣を上洛させたのに対して、武藤氏は武藤当主の義勝自ら上洛したことに大きな意義あったように思われる。かくして義光は無念のうちに豊臣政権の傘下に埋没していく。(山形市史・上越市史参照)   

 

 

南部、斯波氏を滅ぼす 

  

奥羽の名門斯波氏が遂に没落の運命となった。その導火線に火を付けたのは斯波氏の臣岩清水右京である。当時、斯波詮直は「昼夜酒淫にふけり 政事に倦み 町人・農家に課役を課し これを諌めると雖も敢えて用いざる」有様で「君臣不和」となっていた。これにたまりかね岩清水氏が南部氏に通じて岩清水館に反旗を翻したのである。斯波氏はこれを怒り、自ら三百余の手兵を率いて岩清水館を攻撃した。岩清水氏は舘を堅く守って防戦したが、食糧の欠乏が心配されたので、夜陰に乗じて手兵と共に館を脱出し、不来方へ走って南部氏に救援を求めた。それを受けた南部信直は五百余騎の斯波攻撃軍を編成し、見前を経て陣ガ岡に進出した。これに驚いた斯波氏は急ぎ軍陣を焼き払って本拠の高水寺城に撤退し、直ちに領内の諸士を召集したが、これに応じる者は殆どなく、集まったのは手兵もわずか五十人に過ぎない状態であった。やむなく斯波氏は僅かの家臣に守られて夜半ひそかに高水寺城を脱出し、山王海へ逃亡した。ここに斯波氏は滅亡し、その領土が南部氏の領有するところとなった。(花巻市史・鹿角市史参照)

 

 

1589 天正17年

名胡桃事件 秀吉、北条氏に宣戦布告

 

沼田問題は関白豊臣秀吉の裁定によって結審した。つまり沼田城を含む利根郡の大部分が北条氏直の領分となり、吾妻郡と利根川西岸の名胡桃城が真田昌幸の領分と定められたのである。そして沼田城には北条氏の家臣である猪俣邦憲が城将として配置され、名胡桃城には真田氏の家臣の鈴木主水が入って、沼田問題は円満に解決された。ところがその後とんでもないことが起きた。沼田城の猪俣氏が謀略を以って名胡桃城を奪い取り、城主の鈴木氏を討ち果たしてしまったのである「名胡桃事件」。この報を受け取った秀吉は検使を派遣して真相究明に当たり、また北条側からも釈明の使者が派遣された。しかし裁定を破ったことに対する秀吉の怒りはおさまらず、北条側の使者を抑留して釈明を一切聞こうとはしなかった。沼田問題が解決すれば氏政・氏直のどちらかが上洛すると約束しておきながら、未だにそれを実行せず、なおかつ名胡桃城を攻め取ったことは言語道断、よって秀吉はこれを「私戦禁止令」違反であるとし、北条氏に対して討伐する旨の最後通牒を通告した。また同時に小田原征伐のための総動員令を全国に向けて発した。事実上の宣戦布告である。戦国時代初の全国規模の発令であった。(群馬県史・長野県史参照)  

 

 

伊達、大崎領を併呑 

 

昨年、最上義光と和睦して北の脅威から解放された伊達政宗は、今後はその攻撃目標を南へ移していくのだが、その前に昨年の大崎合戦で敗退した雪辱を晴らしておく必要があった。まもなくそのきっかけとなる出来事が大崎側から持ち込まれた。大崎義隆と氏家義継の不和が再燃し、大崎氏より切腹を命ぜられた氏家氏が、政宗を頼って米沢に逃げて来たのである。政宗はこれを救助する口実で大崎攻めに乗り出し、大軍を以って大崎城を取り囲んだ。これに驚いた最上氏は、これ以上政宗との関係が崩れるのを恐れて、義姫(政宗の母 義光の妹)に仲介の労をとってくれるよう懇請した。ところが時遅く、戦いは既に終わっていた。大崎氏が秘かに政宗と盟約し、事実上服属してしまっていたのである。盟約の条には、今後は最上家との縁を絶ち切って伊達家と縁組することが記されていた。こうして北の安全を確保した政宗は、これより全力をあげて南の脅威、佐竹・芦名連合軍に立ち向かっていく。(山形市史参照) 

 

 

伊達、宇多郡北部を制圧 

 

大崎義隆を降伏させた伊達政宗は、いよいよ芦名義広の討伐に目を向けるが、その前に相馬義胤を討っておかなければならなかった。義胤が岩城常隆と組んで伊達方の大越紀伊守を討つべく岩井沢に出陣していたからである。政宗は義胤の留守を狙って俄かに軍を発し、相馬領の宇多郡へ侵入した。驚いた義胤の父盛胤は救援に向かったが、総勢三百七十余人の兵力ではとうてい政宗の大軍に抗することができず、駒ヶ峯城・新地城・西館城が防戦もむなしく落城した。こうして宇多郡北半を制圧して安全を確保した政宗は、休む間もなく馬を返して芦名攻めに向かった。(福島県史参照) 

 

 

摺上原の合戦 伊達、芦名氏を滅ぼす 

 

いよいよ伊達・芦名両氏の雌雄を決する時が来た。伊達政宗は、まず芦名領の安子島城と高玉城を攻め落とし、更に兵を南へと進めた。一方、芦名義広は佐竹勢と須賀川で合流し、本宮に向けて進軍した。決戦場が郡山から本宮辺りになると考えたからである。ところが政宗は本宮に着陣するとすぐ猪苗代方面に向かった。芦名氏の裏をかいて直接芦名氏の拠点黒川城を攻めるべく進軍したのだ。その報に接した芦名勢は、急ぎ黒川城に戻って伊達勢を迎撃しようと摺上原に軍勢を出した。この摺上原で両軍が遭遇して総力戦となった。初めは芦名勢が優勢であったが、次第に旗色が悪くなって後退し始めると、芦名勢の中から日和見を決める者が多く出だした。彼等は最後まで義広と行を共にする気を失っていたのである。かくして芦名勢は総退却をはじめるが、その退却も無事ではなかった。猪苗代盛国が兼ねてから日橋川の橋を壊していたので、重い具足を付けた将兵たちは川へ落ちて溺死し、芦名勢の大惨敗となった。勝ち誇った政宗は更に喜多方面の諸城の抵抗を排除しながら黒川城に迫ると、味方にも裏切られた義広が黒川城を放棄して佐竹氏の実家に落ちて行った。ここに二十代四百年に渡る芦名氏の治世が終わった「摺上原の合戦」。芦名勢敗北の原因は、義広入嗣以来の芦名家中における芦名譜代と佐竹衆との不和であったという。この決戦によって政宗は、佐竹氏を除く、芦名・白川・岩城・二階堂・石川氏ら南奥大連合のすべてを収め。奥羽の南半分を支配する大大名となった。(福島県の歴史・須賀川市史参照)     

 

                                       

秀吉、伊達を糾弾 

 

摺上原の合戦が関白豊臣秀吉の耳に入るや秀吉は激怒し、伊達政宗への激しい糾弾が始まった。芦名氏を滅ぼしたのは「私戦禁止令」に違反するというのである。政宗は急ぎ弁明使節団を上洛させ、芦名氏の方から戦いを仕掛けられたこと、親の仇であることなどを述べるとともに、「奥州五十四郡の儀は前代より伊達探題につき諸事政宗申し付く」と、伊達が補任されている奥州探題としての権限に基づいて行った行為であると弁明した。しかし秀吉はそれを受け付けなかった。ためにこれより伊達家は存亡の危機を迎える。(福島県の歴史参照)

 

 

安東、南部氏と比内をめぐる攻防戦を展 

 

この年、南部氏と安東氏が比内を巡って攻防戦を展開した。当時、安東家では実季(下国安東家)と通季(湊安東家)の間に後継者問題が起こり、実季が檜山城に籠城するという事態となっていた。その混乱に乗じて南部氏が比内に攻め込んだことで、上記攻防戦となったのである。その立役者は大光寺左衛門尉である。大光寺氏は津軽の代官を勤めていた人物だが、大浦為信の讒言のために南部信治(信直の弟)に攻められ、逃れて比内山田村に居住していた。その大光寺氏は常日頃から復権の機会を窺っていた。そんな矢先のこの年、安東家が後継者問題で混乱状態にあるその最中に、比内大館城主前田下総守の死去を知り、今がチャンスと、大館城代の五城目兵庫を唆して同城を陥落させたのである。さっそく大光寺氏は信直にこれを報告、報を受けた信直は自ら出陣し、大館城に与力百騎足軽百人を添えて北信愛に守らせ帰国した。こうして南部氏は比内を占領したのだが、事はこれで終わらなかった。二派に分かれて争っていた安東氏が一致結束して比内に攻めてきたのである。これを迎撃しようと北氏率いる南部勢は阿仁米内沢まで進出するが、結果は米内沢の戦いで南部勢が敗れた。北氏は殿軍となって引き返すも、大館城が既に陥っていたため撤退を下知して引き揚げ、命からがら南部領国の鹿角に帰参した。ために比内は再び安東氏の許に戻った「湊合戦」。(鹿角市史・新編弘前市史・大館市史参照)

 

 

 

1590 天正18年

小田原征伐 北条、秀吉に降伏 

 

名胡桃事件によって沼田裁定を踏みにじられた関白豊臣秀吉は、北条方の釈明も受け付けず、遂に北条征伐の陣触れを全国に発した。東海道からは徳川家康を出陣させ、北陸道からは前田利家を大将として真田昌幸・上杉景勝らの軍と共に上野に向けて出陣させた。少し遅れて秀吉本隊軍が京都を出発し、東海道を進軍した。この事態を知った北条氏政・氏直父子は秀吉との対決を決意し、領国内の家臣・他国衆に小田原参陣を命じて迎撃態勢をとった。総勢二十二万の秀吉軍に対して迎え撃つ北条軍は三万五千、勝敗の行方は戦う前に既に明らかであった。最初の戦いは山中城で展開され、同城は激戦の末に1日で陥落した。次いで韮山城の攻撃が開始されたが、ここは容易に落とすことができなかったので、持久策を取りながら一路小田原へ向かった。小田原城に着くと秀吉はここで包囲態勢を取り、石垣山に城を築いて長期の戦闘に備えた。一方、利家が率いる北陸軍は松井田城を手始めに箕輪城・厩橋城・沼田城・河越城・岩付城・鉢形城・八王子城などを次々と落とし、上野・武蔵の殆どの北条方支城を攻め落とした。同じころ東海道本隊軍も玉縄城などの相模支城を攻略し、残る城は津久井城と韮山城のみとなっていたが、両城も間もなく降伏した。こうして小田原城が完全に孤立し、命運尽きた氏政・氏直父子は7月5日、秀吉に投降した。氏直は自分一人が責めを負って切腹するかわりに、城中の将兵たちの命を助けてくれるようにと嘆願したが、秀吉は氏直には「その覚悟朱勝なり」と許し置き、氏政ら主戦論者たちに切腹を命じた。氏直は高野山に追放され、ここに北条早雲以来五代百年続いた小田原北条氏が滅んだ「小田原征伐」。尚、北条氏の旧領は家康に与えられ、家康は東海五ケ国に替えて関東六ヶ国を受け取った。(小田原市史・新埼玉県史参照) 

 

 

伊達、秀吉に降伏 

 

関白豊臣秀吉から糾弾を受けた伊達政宗は使節を遣わして、釈明しても許されず、両者の関係は極めて悪化していた。そのため政宗は北条氏直と同盟を組んで秀吉に対抗しようと、北条方への使者の派遣を頻繁に行なった。しかしその一方で、豊臣方穏健派の前田利家らが政宗に小田原参陣をさかんに勧めてきていた。伊達家中では北条支援か秀吉への出仕かを巡って激論が交わされたが、政宗は最終には北条氏と断って秀吉に出仕することを決意した。いざ出発と決まった4月7日の前夜、とんでもない事件が起き、出発が遅れることとなった。事件とは母保春院(最上義光の妹)が政宗に毒を飲ませたのである。政宗を亡き者にして弟小次郎を後継者にしようとしたもので、これが実現すれば伊達に対する秀吉の咎もやわらいで、近隣大名の恨みも晴れると思ったらしい。その背後には兄義光からの入知恵があったに違いない。4月7日、政宗は小次郎を手討にした。その結果、幸いにも伊達家中の結束が固められた。政宗は5月9日に至ってようやく会津黒川を出立し、いったん米沢城に立ち寄って、6月5日、小田原に到着した。時既に小田原攻めの戦局が決定し、落城は間近に迫っていた。秀吉は謁見を許さず、政宗を小田原城に近い底倉に押し込めた。ここで問責使から小田原参陣の遅延、会津略取、親戚同志の敵対など「私戦禁止令」違反についての詰問を受け、会津などの「返上」を迫られた。政宗は素直にこれを承諾した。処分は会津攻略以後の罪を問うこととされ、会津・岩瀬・安積を没収、本領に加えて二本松・塩松および田村が政宗に安堵されることとなり、6月9日、ようやく小田原の陣所にて秀吉との謁見が許された。ここに政宗は秀吉の家臣となって豊臣政権に組み込まれたのである。(小田原市史・福島県史・白河市史参照)    

 

 

秀吉、大浦氏に津軽を安堵 

 

大浦為信が津軽を掠め取ったことについて、天正17年(1589)8月の段階では、関白豊臣秀吉は為信を「私戦禁止令」に違反した人物として領地没収を決めていた。その情報を得た為信はこれより必死の中央工作を始める。頼みとしたのは石田三成ら秀吉側近の奉行衆である。その成果もあって、12月には為信が行なった鷹献上を秀吉に感謝された。つまり「私戦禁止令」に違反した為信が、献上鷹を通じて秀吉に津軽領有を認められたのである。おそらく8月から12月までの期間に為信は猛烈な中央工作を行い、それが成功に至ったものと想定される。また秀吉が小田原へ出陣する前をねらって京都へ駆けつけたことも、功を奏した要因であろう。そのときは秀吉が既に京都を出発してしまった後だったので、追いかけ沼津に先回りした。そこまでしてやっと秀吉と対面することができ、津軽安堵の朱印状を手に入れたのである。(平賀町誌・青森県の歴史参照)

 

 

秀吉、安東氏に秋田を安堵 

 

安東実季(愛季の子)もまた南部氏と比内領有を巡って起こした戦いについて、「私戦禁止令」違反として関白豊臣秀吉から領地没収の裁定が下された。それを知った実季は大浦為信と同様、必死の中央工作を始めた。実季は最上義光・本庄重長らに仲介を依頼し、また使者を上洛させて石田三成その他各方面での必死の活動を行った。その結果、実季は秀吉の朱印状を得ることに成功した。小田原攻めに参陣した実季が秀吉に謁見を許されたのは、奥羽仕置東下途中の下野国宇都宮城においてであった。ここで秀吉から実季への秋田領安堵仕置が伝えられた。(青森県の歴史・日本の名族一東北編Ⅰ新人物往来社参照)

 

 

秀吉、南部氏に七郡を安堵 

 

南部信直が大浦為信と津軽・外浜で戦い、加えて一族九戸政実の離反が明らかとなったその真最中に、小田原攻めに参陣せよという関白豊臣秀吉からの書状が信直の許に届いた。今、国を留守にして小田原に向かえば、為信に対して津軽の領有を認めることになる。また政実が反乱を起こして南部家の政権奪取を図るだろう。しかしこのまま小田原攻めに参陣しなかったら秀吉から異心ありと疑われる。信直はまさに進退極まり、未だかつてない存亡の危機に直面した。そこで信直は南部宗家の家柄である八戸政栄に協力を求めた。八戸家は南部一族の中では独立した領主権を持つ存在であり、それはとりもなおさず秀吉から独立領主として認められてしかるべき家柄であった。その政栄が己の独立領主への道を捨てて、信直に近世大名への道を開かせてやるために、領国の治安を一手に引き受けることにしたのである。そのおかげで信直は小田原攻めに参陣することができ、秀吉から本領「南部中七郡」安堵の朱印状をもらうことができた。但し、このときの七郡には津軽三郡が入っていなかった。なぜなら既に秀吉は津軽三郡の朱印状を為信に与えてしまっていたからである。今からそれを取り消すこともできず、その代償として秀吉は「私戦禁止令」直後に信直が攻め取った紫波郡を黙認し、更に小田原不参の和賀・稗貫両郡を旧主から取り上げ、本領の糠部・閉伊・岩手・鹿角にこの三郡を加えて七郡の安堵とした。(八戸市史・三戸町史参照)  

 

 

秀吉、相馬氏に三郡を安堵 

 

昨年、伊達政宗に駒ヶ峯城・新地城・西館城などを奪われた相馬義胤は、今年になっても更に大沢合戦、新地合戦、竜生淵合戦で政宗に敗れ、相馬氏歴代で最大の危機を迎えるに至った。この窮地に立って家中は和戦二つの意見にわかれた。中村城に隠居していた父盛胤は小高城に義胤を訪ね、遠祖以来の家名を全うするためには政宗への服属もやむなし、との意見を述べた。これに対して義胤は政宗に追従することは考えていない。政宗の旗下となって家名を汚すよりは、むしろ屍を砂礫に晒しても政宗の大軍と戦い、この城で自害すべきであると主張した。盛胤も遂にこれに同意した。この決断により相馬氏が滅亡の淵に立つことになったのである。ところがこの危機は関白豊臣秀吉の圧力によって回避された。秀吉から全国の大名国人たちに出された「私戦禁止令」は、小田原城の落城とこれに続く奥州仕置によって徹底されたからである。これによって伊達氏との抗争の過程で宇多郡の北半が伊達領となったものの、相馬氏は標葉・行方・宇多(南半)三郡が秀吉によって安堵された。(福島県史参照) 

 

 

秀吉、佐竹氏に常陸・下野東部を安堵 

 

佐竹義宣(義重の子)の許にも関白豊臣秀吉から小田原出陣の督促が届いた。背後に伊達政宗の脅威を感じながらも、佐竹氏は献上品を携えて小田原に赴き秀吉に謁した。これによって小田原落城後、秀吉は義宣に常陸と下野東部を安堵し、政宗と係争中であった滑津・赤館の地、更に岩城領までも佐竹氏の領地として公認した。ここに佐竹氏は豊臣政権下の大名として、常州旗頭の地位を保障されたのである。その保障を傘に佐竹氏は、とかく独立的な動きをみせてきた諸将の討滅を断行、水戸城の江戸重通を追放し、府中城の大掾清幹を自殺させ、更に「南方三十三館」と呼ばれている鹿島郡と行方郡の諸氏を、太田城に招いて十五人を誅殺した。こうして常陸国の有力諸将は滅亡し、あるいは臣属して常陸が佐竹氏の支配下に入った。(茨城県史・石岡市史・筑波町史参照)  

 

 

秀吉、里見氏に安房を安堵 

 

里見義康(義頼の子)も関白豊臣秀吉の小田原参陣命令に応じて三浦へ渡海し、そこを守る北条勢を攻めた。年来の悲願である鎌倉を入手したかったのである。ところが義康は秀吉が小田原に着陣しても謁見に出向くことをせず、まだ三浦半島にこだわって戦いを続けていた。この事は秀吉の疑惑を招き、ようやく義康が秀吉の本営に出頭したときには、秀吉は遅参を怒って面会を許さなかった。義康は徳川家康を通してひたすら罪を謝し、ようやく許されるに至った。しかしその罰は免れず、上総の領地を没収されて徳川家康に与えられ、義康には安房一国のみの安堵となった。領地が減ったとはいえ、里見氏は辛くも豊臣大名として生き残ることができたのである。(勝浦市史・日本の名族四関東編Ⅱ新人物往来社参照)

 

 

奥州仕置 太閤検地の実施を厳命 

 

関東を平定した豊臣秀吉は黒川に入り、ここで奥羽大名に対して仕置を行った。小田原に参陣した大名、相馬・岩城・最上・安東・小野寺・南部・大浦氏らにはその所領が安堵され、小田原不参の大名、和賀・稗貫・葛西・大崎などは領地を没収された。葛西・大崎の旧領は木村吉清に、伊達政宗から没収した会津地方は蒲生氏郷に与えられた。この結果、政宗の所領としたのは、黒川・宮城・名取・柴田・亘理・伊具・刈田・伊達・信夫・田村・長井の諸郡と、宇多・桃生・志田・安達郡のそれぞれ一部であった。仕置を終えた秀吉は浅野長政・上杉景勝・前田利家らに太閤検地の実施を厳命して帰途に就いた。その厳命は厳しいもので「もし検地に反対する不届き者があれば城主であれば城に追い込み一人も残さず撫で斬りにせよ、百姓であれば一郷でも二郷でも悉く撫で斬りにせよ」という徹底した内容であった。果たして秀吉が帰還した直後、検地に反発した国人衆が一斉に蜂起し、次から次へと飛び火して奥州一帯が大混乱に陥った「奥州一揆」。(仙台市史・二本松市史参照) 

 

 

奥州一揆勃発 

 

最初の一揆は出羽の地で起こった。上杉景勝らが庄内藤島・由利・仙北の検地を実施している最中であった。一揆軍は藤島・大宝寺・尾浦の諸城を囲み、三崎峠で上杉軍の北進を阻んだ。結局、この一揆は翌年の春までに鎮圧されたが、これを扇動したのは武藤義勝であると疑われ、その所領が没収された「藤島一揆」。一揆軍の動きは由利・仙北地方でも激しく起こった。ここでは最上義光が平賀湯沢城に入って周辺土豪の反乱鎮圧に尽力した「仙北・由利一揆」。一揆の動きは和賀・稗貫・旧葛西領・旧大崎領などへも波及していき、更に木村吉清が逃げ込んだ佐沼城が包囲されるに至った。仕置奉行の浅野長政はこの事態に驚き、伊達政宗と蒲生氏郷に木村氏の救援を命じた。政宗と氏郷は協同して一揆勢に向かう手筈を整えたが、ここで事件が発生、「政宗が一揆勢と通じて氏郷殺害を計画している」という密告情報が氏郷の耳に入った。驚いた氏郷は病気と称して出陣せず名生城に籠城した。しかし政宗が単独で木村氏を救出したので氏郷の疑心も晴れ、両者は和解して一件落着となった「和賀・稗貫一揆」「大崎・葛西一揆」。ただし落着したのは政宗の事件のみで、一揆の動きは拡大の一途を辿り、遂に南部家の相続問題に火が付いて、翌年「九戸の乱」と呼ばれる大動乱となっていく。(真室川町史参照・仙台市史参照)

 

 

 

1591 天正19年

秀吉、九戸の乱を鎮圧 天下統一 

 

奥州各地で発生した一揆は遂に南部家にも飛び火し、「九戸の乱」という大乱を引き起こした。この乱は南部家の相続問題にまつわるお家騒動が引き金となったものである。1月、南部家の惣領信直は居城の三戸城にて恒例の年賀を行ったが、その祝儀に九戸政実のみが病気と称して登城しなかった。これは惣領に対する明らかな敵対を意味していた。既に信直が南部領の正式な惣領として認定されていたとはいえ、家督奪取の機会を狙っていた九戸氏にとっては、今立ち上がらねば二度と南部家の家督を獲得する機会がないと考えたのだろう。ために九戸氏は仲間を集めて反旗を翻したのである。当時の九戸家の勢力は久慈・四戸・二戸・七戸などを押さえて岩手・紫波に広がり、惣領を凌ぐ勢いを持っていただけに、この乱は信直の地位を非常に危ういものにした。窮地に立った信直は、もはや自分の兵力だけでは鎮圧できないと判断して、関白豊臣秀吉に救援を要請した。さっそく秀吉は豊臣秀次を総大将に任命し、総勢五万と称する大軍を以って九戸城に迫った。一方、九戸氏は同心を九戸城に集結させて五千の兵で籠城戦の構えを見せた。秀吉軍は直ちに攻撃に取り掛かったが、天嶮を利用した九戸城は落ちる気配がなく、多くの損害を出すばかりであった。そこで秀次は和平の道を探り、「速やかに降伏すれば一門の命を助け、領地を安堵するよう取り計らう」という講和条件を九戸氏に申し送った。果たして九戸氏はこの講和を受け入れ降伏した。しかしこの講和は秀次の謀略で、政実以下八名が三迫で首を刎ねられ、城中の者は妻子もろとも皆殺しにされた。ともあれこれが秀吉の天下統一の最後の戦いとなり九戸氏また戦国時代の終わりを告げる戦いとなった。(新編弘前市史・三戸町史・八戸市史参照)

 

 

 

1599 慶長4年 

慶長3年8月 秀吉死す 

 

豊臣秀吉は晩年、朝鮮の役という大失政を演じて、人的・経済的な大損失を招いていた。その役がまだ半ばの慶長3年(1598)の夏、秀吉は病の床に就いた。内には武将達の対立不和があり、まして相続人秀頼は未だ幼少六才であった。その将来を思うとき秀吉は不安に堪えられず、五奉行(石田三成・浅野幸長・黒田長政 増田長盛・長束正家)を枕元に呼び秀頼の後事を託した。五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝)もまた、秀吉の意を安んじさせるために、秀頼に対して忠誠を尽くすとの起請文を交換するのであった。北政所が醍醐三宝院に北斗曼荼羅供を修して病気平癒を祈るも、その功験なく8月、さしもの栄華を極めた英傑が懊悩のうちにその生涯を閉じた。同月、家康・利家は喪を秘して、朝鮮で戦っている諸将の全軍を帰還させるよう命令した。その引き揚げは容易でなく、小西行長・加藤清正・島津義弘らはしばしば苦戦を強いられたが、命からがら全軍の撤退を完了し、七年の長期に渡った朝鮮の役も、不首尾のままにようやく終止符を打つこととなった。(関ヶ原町史参照)

 

 

慶長4年閏3月 石田三成、蟄居 

 

慶長4年(1599)閏3月、前田利家もまた病のためにこの世を去った。利家は若いころから豊臣秀吉と刎頸の間柄で、武勲派の最右翼でありながら、秀吉恩顧の諸将から等しく畏敬されていた人物であった。その利家が没したことで、豊臣家は箍が外れたように内部分裂が起こった。平素から石田三成と犬猿の仲だった加藤清正・細川忠興・浅野幸長・福島正則・黒田長政ら七将の面々が、好機逸すべからずと三成を打ち果たすために押し寄せたのである。三成は宇喜多秀家の邸に避難したが、ここも安全でないので京都伏見の徳川家康の邸に逃げ込んだ。七将たちはこれを追いかけて家康の邸に迫り、三成の引渡しを要求した。だが家康は、三成を討たせることは名分が立たないとし、七将を異見して去らせ、三成を佐和山城に隠退させることにした。実はこのころ既に家康は豊臣家からの天下争奪を目論んでおり、両派の対立を利用することが、それを実現させるための最短コースと考えるようになっていた。ゆえに三成を死なせるわけにはいかなかったのである。(関ヶ原町史参照)

 

 

慶長4年4月 石田三成、上杉氏と密約

                                                                                                                                                                                   石田三成は佐和山に帰ったが、ここでおとなしく隠居するような人物ではない。水面下で四方八方に間諜を走らせ、徳川家康打倒の密約を練った。その一人が会津の上杉景勝である。景勝は三成の意を受けて領内における築城や道路の改修を計り、また多数の浪人を召抱え、武具・馬具などを過分に用意した。この風聞に接した家康は、さっそく洛中・洛外に居住する諸浪人の会津に下ることを禁じ、また商人達に武具・馬具等を売買することを禁じた。また家康は増田長盛と大谷刑部を呼び、景勝謀反の噂があるが如何かと問うたのに対して両人は、景勝に限って秀頼公に謀反を起こすなど毛頭ないと信じているが、念のために検使を立てて事の真相を究明されたしと返答した。ところが4月に上坂した越後の使者が言うには、景勝謀反の計画は疑い無きこととして、これを家康に言上している。実はこのとき、景勝は三成と謀って、あえて公然と事を遂行しつつあったのだ。(関ヶ原町史参照) 

 

 

慶長4年9月 家康、大坂城に入る 

 

前田利家が没し、石田三成が佐和山に隠退すると、豊臣秀吉を擁立してきた二大支柱は失われ、五奉行・五大老にその中心人物がいなくなった。それによって諸将の間に疑心暗鬼が生じ、不安と動揺が豊臣家の内部に広がっていった。かかる情勢を打開するため、徳川家康は五奉行をして五大老以下の諸将を説かしめ、朝鮮の役以来ひさしく国元を離れていた諸将を帰国休養させることにした。これは家康にとって身辺の危険を遠ざけ、同時に政権を恣にする一石二鳥の方策であった。また家康は、増田長盛・長束正家の両人を召して、「秀頼公を後見いたす為、我等も大坂城に移る」という話をした。もちろん同意の外なく9月、家康は伏見城から大坂城西丸に移った。ここに家康は誰憚ることなく名実ともに天下様となったのである。尚、西丸に居た北政所は追われて京都三本木に隠棲している。(関ヶ原町史参照)       

    

 

 

 

 

9徳川政権

 

1600 慶長5年 前

5月 家康、上杉討伐軍を発す 7月 石田三成挙兵 

 

5月、上杉景勝挙兵の報が徳川家康の許に届いた。それを待っていた家康は、豊臣の和平を乱す者を誅罰するという名目で上杉討伐を決断し、全国に向けて会津遠征を呼びかけた。6月、家康自身も伏見城を発し、江戸城を経由して小山に本陣を張った。一方、石田三成は兼ねてより景勝と通謀し合い、家康が東下する機会を待っていた。二人は東西から家康を挟撃する手筈を取っていたのである。いざ家康挙兵を知るや、三成は家康の非違十三ヶ条を挙げて西国の諸将に檄を飛ばし、豊臣秀頼を擁して大坂城に兵を挙げた。伊勢路より東海道を下るもの、美濃路より東海道を下るもの、北陸道を通って東下するものの三軍団に分けて進発させ、残りを予備軍として大坂城にとどめた。三成自身は美濃路を通って大垣城に入った。(関ヶ原町史参照) 

 

 

7月 家康、大坂へ退転 

 

7月、石田三成挙兵の報が京都伏見城の鳥居元忠から徳川家康の許に届いた。風雲急を知った家康は諸将を小山に召集して軍議を開いた。世に名高い小山会議である。ここには豊臣恩顧大名が多数いる。秀頼の名の許に大阪方が挙兵したとなれば、果たして彼らが家康に味方するかどうかわからなかった。そこで家康は会議の流れを導くための手を打った。誰か一人が白と言えば白へ、黒と言えば黒へ全体がドッと流れていく。その発言の役割を秀吉子飼い武将福島正則に託したのである。かくして会議は開かれた。「会津の退治を先にすべきか、それとも上方の退治を先にすべきか」の問いに、正則は「先ず上方を先に退治あるべし、我は徳川殿をお助け申す」と大音声で述べた。会議の流れは一決し、真田昌幸を除いてほぼ全員が上方退治に決定、即座に大坂への退転が開始された。正則はさすがに大坂城の秀頼のことが頭をかすめたか、「家康殿が豊臣に取って代わろうとの意図があるのでは」と問うたのに対して、家康は「秀頼公に対しては太閤生前と同様異心ないから安心せよ」と答えたので、すっかり安心してしまい、勇んで先陣を承ったという。尚、伏見城はこのとき既に三成方の手によって落とされており、鳥居氏以下全員が玉砕している。徳川家の気概を天下に示したのである。(関ヶ原町史参照) 

 

 

9月 両軍、一路関ヶ原へ 

 

東軍徳川家康は三軍団を編成して西上することとした。第一軍団は福島正則を始めとする豊臣恩顧の武将が東海道を西上、第二軍団は徳川秀忠を将とする徳川譜代の諸将三万余人が木曽路を西上、第三軍団は家康自ら三万余人を率いて東海道を西上する計画である。8月、第一軍団は木曽川を越えて西軍が守る竹鼻城を攻略し、更にその勢いをもって岐阜城を占領した。9月、岐阜城攻略の吉報を得た家康は江戸を出発、岐阜を経て赤坂まで進み、ここに本営を置いた。このころ西軍の将石田三成は大垣城に入っており、その他の西軍のほとんどは大垣以西に集結していた。ここで家康は考えた。このまま大垣城に攻め込めば、西軍は同城を死守して戦いが長引く。その間に大坂から援軍が来たら勝敗の行方は計り知れない。なんとしても彼らを大垣城から誘き出して野戦に持ち込まなければならない。家康は一策を案じ決断した。「明早朝大坂に向かって進軍せよ」と全軍に発令し、殊更にこの事を大垣城に向かって揚言させるのであった。三成は慌てた。東軍が大垣城を避けて大坂に進軍されては大坂城の豊臣秀頼が危ない。三成は即刻、東軍の進路を塞ぐべく全軍関ヶ原への移動を命じた。みごとに家康の策略にはまったのである。かくして西軍は三成の部隊を先頭に西進し、三成は西北の小関の笹尾山に陣取った。総勢九万であった。「三成、関ヶ原に退却」の報を得た家康は、「直ちに西軍を追って前進せよ」と命じた。先鋒の福島氏を始めとする八万の東軍はこぞって関ヶ原に向けて進軍、家康は関ヶ原の東端桃配山に着陣した。(関ヶ原町史・新修大垣市史参照)

 

 

 

1600 慶長5年 後

家康、合戦に勝利し政権を握る 

 

慶長5年(1600)9月15日朝、関ヶ原に立ち込めていた霧が晴れ、西軍の旗印がヒラヒラと見え始めた。そのとき東軍の伊井直正隊が宇喜多陣に向かって進軍した。それを見た福島正則もまた先を越されまいと宇喜多陣に向かって突進したため、ここ天満山東において戦闘の火蓋が切られた。丸山の黒田長政は烽火を掲げて東軍全軍に戦闘開始の合図を送った。西軍も同様、笹尾山において烽火を掲げ、東西両軍の激戦の開始となった。こうして始まった合戦も、午前中の戦況は東軍が頗る不利で、西軍は屢々喚声をあげて東軍を圧迫した。焦った徳川家康はしきりに松尾山の小早川秀秋に使を送り、大谷吉継の隊への攻撃を命じた。小早川氏は西軍に所属していたが、実は戦いの前に東軍への寝返りを約束していたのだ。しかし小早川氏は傍観しているだけで一向に動こうとしなかった。たまりかねた家康は松尾山に向けて発砲し、小早川氏の決心を促した。この銃声で我に返った小早川氏は、飛び跳ねるように全軍山を下り、西軍の大谷隊を攻撃した。すると付近にいた脇坂・赤座・小川・朽木らの面々も突如寝返り、南側面からドッと大谷隊を呑み込んだ。結果、大谷隊は壊滅し、吉継も自殺して西軍最初の敗者となった。午前中勇敢に戦っていた西軍も、午後には反者あり反者ありの言葉が伝わって士気が俄かに沮喪し、大谷氏に次いで小西行長・宇喜多秀家と相次いで敗れ、遁走の波が全体へと広がっていった。残るは島津義弘・石田三成のみとなったが、間もなく三成も敗れて江州方面に逃れてしまった。最後の島津氏も敵中突破を断行した末に辛くも関ヶ原を脱出し、本国薩摩へ帰った。かくして激戦を極めた合戦も、僅か1日で東軍の勝利が確定した「関ヶ原の合戦」。ここに家康は名実共に天下の権を握ったのである。(新修大垣市史参照) 

 

 

慶長8年 家康、秀頼を三ヶ国に減封 江戸に幕府を開設 

                                                                   関ヶ原の合戦後、徳川家康は論功行賞の末に豊臣秀頼の直轄領を大幅に没収し、秀頼を摂津・河内・和泉三ヶ国の六十五万石に封じ込めた。その他八十八家を取り潰し、毛利・上杉・佐竹氏のように減封処分にした大名が五家、その他を含めた総没収高は日本全体のおよそ三分の一に相当する六百三十二万石であった。この没収分を家康は自由裁量で再配分する権利を得たのである。その権利を使って、徳川政権の支配体制を永続化するための巧妙な手を打った。その一つは六十八人もの一門・譜代大名を誕生させたこと。二つ目は直轄領を二百四十二万石から四百万石に引き上げたこと。三つ目は外様大名を意のままに改易・転封できる「生殺与奪の権」を握ったことである。三年後の慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍の宣下を受け、本拠地江戸に新たな幕府を開いた。室町幕府が滅びてから三十年ぶりの幕府開設であった。これをもって家康は天下人としての地位が確立したのである。これ以後、家康は秀頼に臣礼をとらなくなり、諸大名もまた秀頼への挨拶を遠慮するようになった。慶長10年(1605)、家康は将軍職を三男秀忠に譲渡し、自らは伏見にて政治を行った。これは将軍職の世襲を天下に知らしめるとともに、二代目の秀忠に江戸幕府の体制固めをさせるためであった。(クロニック戦国全史参照)

 

 

 

1615 慶長20年

慶長16年 秀頼、家康に謁見 

 

慶長16年(1611)3月、徳川家康は豊臣秀頼に上洛を要請した。もしそれを拒否すれ、ば豊臣家に対して開戦も辞さない腹づもりであった。結果は秀頼の母淀殿がこれを拒否した。淀殿は家康の方が秀頼の家臣だと考えているのである。これに危機感を抱いていた秀吉子飼いの加藤清正・福島正則らは、身に替えても秀頼の無事を守る、と嫌がる淀殿を説得した。また家老の片桐且元は淀殿が命じた占いの封を大吉と書き替えるなどして、やっとのことで家康との対面に持ち込んだ。二条城での対面は清正が付き添うということで無事終了したが、このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き、秀頼勢力の復活を恐れ、彼が大人になる前に殺して、豊臣家を滅亡させることを画策したと伝えられる。今では豊臣家は徳川治政下の一大名の身分に成り下がったとはいえ、大坂城内には父秀吉が蓄積した膨大な財産があり、また秀頼を守ろうとする秀吉恩顧の大名たちが未だ健在だったのである。(クロニック戦国全史参照)

 

 

慶長19年7月 鐘銘事件 家康、豊臣に宣戦布告 

 

慶長19年(1614)7月、豊臣秀頼が方広寺大仏殿の供養儀式を執り行なおうとしたその直前、徳川家康から鐘銘の文言について異議が出され、供養の延期を命じられた。鐘銘の中に「国家安康、君臣豊楽」とあるのは「家康の名前を安の字で分断して呪い、豊臣を君として楽しもう」と読めるとして、徳川を呪詛するものだと難詰したのである「鐘銘事件」。8月、豊臣家臣の片桐且元が家康に弁明するために駿府へ赴いた。ここで家康から和睦の条件を受けることになる。それは秀頼が江戸に参勤するか、または大坂を退去するか、または淀殿が人質になるか、いずれか一つを選べ、というものであった。且元が大坂に帰ってこれを報告したところ、淀殿を始めとする交戦派は、且元を家康に通ずる者とみなして大坂から追放した。するとその日を待ち構えていたかのように、家康は豊臣に対して宣戦布告した。ここから大坂冬の陣が始まる。(クロニック戦国全史参照)

 

 

慶長19年12月 大坂冬の陣 後講和 

 

慶長19年(1614)11月、徳川家康は住吉に陣を敷き、総勢二十万の軍勢で大坂城を包囲した。対する大坂城の籠城兵は十万であり、その中には真田信繁(幸村)や長宗我部盛親などの浪人衆が諸国から入っていた。戦闘は徳川軍が豊臣方の穢多崎砦を攻め取ったところから始まり、次いで徳川方の佐竹・上杉勢が今福・鴫野の陣を奪取した。そこへ大坂城から後藤基次らが出撃して来たものの、徳川軍が反撃して城内へ押し戻した。以後小競り合いが続く中、徳川軍は徐々に豊臣方の包囲を狭めていった。そして12月、冬の陣最大の激戦が城の東南にある真田丸で繰り広げられた。徳川方の前田利常隊一万二千・井伊直孝隊四千・松平忠直隊一万が真田丸に攻めかかったが、それを待ち受けていた真田隊五千が、真田丸から弓鉄砲の一斉射撃を繰り返して徳川軍に大打撃を与えたのである。この戦い以後、家康は力攻めを避けて講和の道を探り、その一方で籠城兵の不安感を煽り立てる心理作戦を併用し、轟音を響かせて大砲を発射したり、音を立てて地下道を掘削させたりした。これに怯えた淀殿がついに交渉に応じて、12月22日に講和が成立した。その条件には、総構えの堀を埋めること、浪人を解放すること、などであった「大坂冬の陣」。(クロニック戦国全史参照)

 

 

慶長20年1月 講和決裂 

 

慶長20年(1615)1月、徳川家康は講和条件に基づいて大坂城の総構えの堀を埋めた。と見る間に、豊臣方の抗議を無視して、本丸の一角の空堀以外の全ての堀を埋め立ててしまった。そもそも講和条件の内容は総構えのみを埋めることであったが、大坂城の無力化を狙う家康は、この食い違いを正すことはなかった。騙されたことに気がついた豊臣方は、埋め立てられた堀をさらい、新たに兵糧・武器弾薬を蓄え、浪人の募集に走った。その動きは遂一幕府の耳に入り、3月には大坂に再挙の動きがあるとの急報が入った。態度を硬化させた家康は、大坂方に「秀頼が大坂城を出るか、浪人を全部追放するか、どちらかを実行せよ」との最後通牒を渡した。4月、大坂から「どちらも実行できない」との返事を聞くや、再討伐を決意して諸大名に出陣を命じた。ここから大坂夏の陣が始まる。(クロニック戦国全史参照)

 

 

慶長20年5月 大坂夏の陣 豊臣滅亡 

 

慶長20年(1615)4月18日、徳川家康は京都に入り、総勢二十万の軍勢が再び大坂城を包囲した。対する豊臣方は、裸城同然となった大坂城に籠って戦うことの不利を考え、敵の大軍を狭隘な地で迎え撃つことに軍議が決した。5月6日、後藤基次を先陣とする豊臣方は、河内大和口の道明寺付近へ進んで徳川方と戦闘に入った。ここで後藤氏ら多くの武将が戦死して壊滅の危機に晒されたが、真田信繁(幸村)の救援によって辛うじて兵を引き揚げることができた。翌7日、豊臣方は天王寺あたりを最後の戦場と定め、敵を誘い込む真田氏の主力軍と明石全登らの別働隊が、二手に分かれて乾坤一擲の勝負に出た。功をあせる徳川方の乱れがあったためか、突入を繰り返した豊臣方が家康の本陣を脅かした。特に真田勢は三度までも本陣に突入した。しかし最後の突入で真田氏はじめ名立たる武将のほとんど全員が戦死した。勝ちに乗じた徳川軍は大坂城に殺到、本丸の一角から火を発したその機を捉えて一斉に雪崩込んだ。翌8日、豊臣秀頼・淀殿が山里曲輪に隠れているのを発見し、鉄砲を撃ちかけたため二人は自害して果てた。数百人いた供の者もいつしか逃げ去り、最後まで従っていたのは重臣ら三十人前後で、共に自害した「大坂夏の陣」。ここに豊臣家が滅亡し、徳川政権の磐石の基礎が完成した。(クロニック戦国全史参照)

 

寛永14年 島原の乱 

 

寛永14年(1637)、「島原の乱」が勃発した。大坂夏の陣から既に22年が過ぎ、三代将軍家光の時代になっていたこの乱を、果たして戦国時代を締めくくる出来事として扱って良いかどうか躊躇するところではあったが、これが後の泰平をもたらす画期となったこと考えれば、平和を願い続けた家康の集大成として、紹介するにふさわしい事件であると判断した。この乱の原因は、島原藩主松倉氏と天草を領有していた唐津藩主寺沢氏の虐政にあった。島原・天草はともにキリスト教信仰が強く、その弾圧に激烈を極めていた。また年貢が年々重くなり、完納し得ぬ農民には残酷な刑が加えられた。更に連年凶作が続いて餓死する者が続出した。これにたまりかねた人たちが立ち上がり、大乱となったのである。組織の中心をなしたのは旧豊臣方の浪人であり、その下に百姓たちを指揮した。浪人は関ヶ原の合戦の結果として大量に出、江戸幕府が成立してからも大名の家が潰されるたびに出た。そこから放り出された浪人は千六百万石分で二十四万人になるという。主導者の浪人も領土を没収された豊臣方小西行長の旧臣であった。寛永14年11月、彼らは十六歳の美少年天草四郎時貞を天童に祭り上げて農民を束ね、総勢三万七千人の老若男女が原城に籠城した。翌14年2月、老中松平信綱の幕府軍十二万による総攻撃が開始され、激戦の末一揆勢が壊滅した。幕府軍の死傷者一万数千人、一揆勢は一万余人が獄門に掛けられ、その他生け捕りの者みな斬り捨てられた。生きのこった老人・女・子供も全員その場で処刑され、城内の空堀が死人で埋まるほどであったという。この極端なやり方は、各地に溢れかえった浪人たちの、今にも暴発しそうな風潮の中で、それを絶対に赦さぬという一種のデモンストレーションであった。またこれ以後、幕府は全国のキリシタン弾圧を徹底し、さらにポルトガル船の来航を禁止するなどの、いわゆる鎖国政策を完成させた。これによって、二百余年に渡る、日本史上例を見ない泰平を迎えるのである。家康が希求し続けた「厭離穢土 欣求浄土」の世界が、このときやっと完成したと言いえる。(日本の歴史・日本の合戦・長崎県の歴史参照)

 

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